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企業の信頼性を高めるためにプライバシーガバナンスへ取り組む(後編)

デロイト トーマツ ファイナンシャルアドバイザリーの石川仁史、末石友香、上妻孝之によって、「プライバシーガバナンスとは何か」「そこに取り組むことのメリットと、取り組まなかった場合のリスクとは」が語られた前編を受け、後編では「プライバシーガバナンスの取り組みとは、具体的に何をすればいいのか」を中心に議論がなされました。さらに、国内外におけるプライバシーガバナンスの今後の展望についても言及されています。プライバシーガバナンスは、さらなる企業成長の実現とは切り離せないともいえるとの考察は、3者共通のものでした。(聞き手:村上尚矢)石川仁史デロイト トーマツ ファイナンシャルアドバイザリー合同会社マネージングディレクターグローバルゲームプラットフォーマー、総合電機メーカー、コンサルティングファームの法務部門にて、契約法務、機関法務(ガバナンス)、戦略法務に従事した後、DTFAに参画。個人情報管理支援(漏洩時対応含む)、プライバシー影響評価(PIA)支援、マイナンバー、ヘルスケアデータ利活用支援、データマネジメントプラットフォーム構築支援などに従事。詳細はこちら 末石友香デロイト トーマツ ファイナンシャルアドバイザリー合同会社マネジャー法律事務所、企業の法務部門にて、情報漏洩対応、情報管理体制構築業務に従事した後、DTFAに入社。大規模有事発生後の個人情報管理体制の再構築支援、海外子会社でのプライバシーデータ取り扱い方針策定支援、ヘルスケアデータ利活用支援などに従事。 上妻孝之デロイト トーマツ ファイナンシャルアドバイザリー合同会社マネジャー2018年にDTFAに参画後、企業が危機に直面した際の危機管理・危機からの脱出を支援するクライシスマネジメントにおいて、不正調査、情報漏洩調査などにIT技術者、プロジェクトマネージャとして従事。近年では、個人情報漏洩事案における有事対応の知見をもとに、平時からの個人情報保護対策支援、プライバシーガバナンスの構築支援にも従事。 ガイドブックを参考に最初の一歩を上妻はじめに注意していただきたいのですが、プライバシーガバナンスは法律上の定義が存在しません。個人情報保護法などの法令であれば、「してはいけないこと」「しなければならないこと」を定めているので、企業としてもアクションが取りやすいでしょう。しかしそのような明確な解がない中で、社会状況や消費者の価値観を考慮しながらプライバシーという考え方の原理原則に立ち返り、業務に落とし込んでいく必要があるのがプライバシーガバナンスの構築です。そのため、多くの企業が対応に苦慮している印象があります。また、現場レベルだけで保有する個人情報保護の対策を協議していると、論点が「法令上必要なのか?」になりがちで、プライバシーガバナンスの本質を見失うことが多々あります。この状況を鑑みると、プライバシーガバナンス構築のために最初にやるべきことは、経営層の意識改革といえるでしょう。彼らがプライバシーガバナンスの構築に全社で取り組むと決断を下し、その意義と向き合う姿勢をトップダウンで発信することが必要になります。とりわけ従業員から発せられる「何のためにそれをやるのか」との問いに対しては、法令対応を基準としているわけではなく、それ以上の対応を求めていることを周知させるのが重要です。その際参考となるのが、前編で紹介した経済産業省、総務省による『DX時代における企業のプライバシーガバナンスガイドブック』(*)です。その前半では、経営者が実施すべき3項目が挙げられています。「プライバシーガバナンスに関わる姿勢の明文化」「プライバシー保護責任者の指名」「プライバシーへの取組に対するリソース投入」がそれで、その他にも重要項目として「体制の構築」「運用ルールの策定と周知」「企業内のプライバシーに関わる文化の醸成」「消費者とのコミュニケーション」「その他のステークホルダーとのコミュニケーション」が示されました。*DX 時代における企業のプライバシーガバナンスガイドブック石川これらは体系的にまとめられているので、経営層の方にはぜひ目を通していただきたいところですね。上妻そのとおりです。加えて、忘れてはいけない重要事項として、会社が保有する個人情報の所在とライフサイクルを可視化するデータマッピングの作成が挙げられます。そこから、リスク評価まで行うことができていれば理想的です。それが実行できれば、企業のプライバシーガバナンス構築における行動指針、優先事項がスムーズに決定できます。末石プライバシーガバナンスという概念自体、固定できない「ふわっとした」感覚があるものですが、その構築によって自浄作用が働くようになり、自ずとプライバシーリスクが低減していきます。規制など外的要因だけが働く場合とは異なり従業員の意識が高まるため、リスクを見極める自己判断が可能になるからです。結果、消費者からの信用も高まると期待できます。そのためにも、まずは基盤となる組織体制とルールの整備、その周知・浸透により、内部でPDCAサイクルが回るようにすることが優先的な課題になるでしょう。プライバシーガバナンスに留意する有用性石川その課題を比較的解決しているのが、金融機関やコンシューマー情報を取り扱う企業ですね。いずれの企業群は、個人情報だけでなく、それに紐づく重要情報を多く抱えていることも要因となって、非常に高い意識を持たれています。また、グローバル企業もプライバシーガバナンスの広がりを敏感に感じ取り、対応を行っています。上妻とはいえ、現状はまだ道半ばという感じは否めません。保有している大量のパーソナルデータをもとに、プロファイリングやマーケティングに活用している企業がありますが、それらの企業が消費者に向けて十分な情報発信をしているのか、社内の管理体制を整えているのかについては、疑問が残ります。一方で、その業界のモデルとなるようなリーディングカンパニーが生まれ始めているのは心強いですね。石川視線を日本国内だけに向ければ、個人情報保護法だけに留意すればいいという人もいるでしょう。ただ、日本に本社を置きつつ欧米中心でビジネスを行っている企業は少なくありませんし、グローバル展開を考えている企業も多いでしょう。日本の個人情報保護委員会も、各国のデータ保護当局と連携して、国際的なデータ利活用と保護との枠組みを強化してくると予測されます。その他の海外においても、国際的なデータ移転に関する標準化や協力が進むと予想されますし、データの匿名化や暗号化、差分プライバシーなどの技術を活用したプライバシー保護強化が加速するでしょう。あとはAIとプライバシーとの関係です。AI技術の進展に伴い、AIが収集・処理するデータのプライバシー保護が重要な課題となります。その際には、AI利用に係る説明責任(アカウンタビリティー)が求められるでしょう。末石日本の動向としては、個人情報保護法は3年ごとに見直され、どんどん厳しいものとなっています。令和4年改正では各種違反行為への罰則が強化され、EUの制定した個人データの保護に関する法令、GDPR(一般データ保護規則)に寄せる形で課徴金制度の導入も令和7年改正に向けた中間試案では検討されています。このように、今後も規制は強化されていくと予測できます。また、自分がある企業に提供したデータを他の企業に移す権利、データポータビリティが日本に導入されるのも時間の問題といえるでしょう。それにより、個人が信用できると考えた企業にデータを集約するようになりますから、プライバシーガバナンスによって信用性を蓄積していくことで、個人情報を多く取り扱えるようになるといった優位性の確保にもつながってくると考えられます。「今」動くことに価値がある石川プライバシーガバナンス構築にはコストがかかると思われる経営層は多いと思いますが、時代の流れには逆らえません。いつ始めるのかと問われれば、「今です」と答えるしかないでしょう。この新しい考え方の導入により「やるべきことが増える」と捉えるのではなく、常に先手でやることにより逆に効率化が進む可能性が大いにあることを理解し、まずはスモールスタートで動き出すことが肝心です。大風呂敷を広げなくても取り組めるのですから。上妻日本企業の多くは、何事においても他社に追随する傾向にあります。しかし、だからこそトップを走ることに大きな意義があるともいえます。今の時期は企業にとってピンチでもありますが、同時にプレゼンスやレピュテーションを向上させるチャンスでもある。それを意識して、各種情報発信を積極的に行ってほしいと考えます。末石プライバシーガバナンスの構築は、確かにコスト面で多少の痛みを伴うかもしれません。ですが、一度手掛けてしまえばPDCAが回り出します。実現すれば、法律が変わってもそれに怯えることはないでしょう。そういった大きな安心と今後の自浄作用に期待を込めて、できるだけ早くプライバシーガバナンスに取り組んでいただきたい。そうすればプライバシーについて、企業としても堂々とした宣言ができます。それは結果的に、企業の初期投資としては安いものと判断できると考えます。<<企業の信頼性を高めるためにプライバシーガバナンスへ取り組む(前編)はこちらから

社会的信頼の獲得とプライバシーガバナンス

企業の信頼性を高めるためにプライバシーガバナンスへ取り組む(前編)

かつての個人情報、パーソナルデータの収集は、イベント開催を機とした参加者アンケートの回収など、「紙」主流で行われていました。しかし現在では、インターネットやスマートフォンなどの普及により、生活のあらゆる場面で企業に情報が提供されるようになっています。そこで注目を集め始めたのが、プライバシーガバナンスです。この言葉の意味するもの、それを企業経営に取り入れる必要性、得られるメリットなどについて、デロイト トーマツ ファイナンシャルアドバイザリーの有識者3名(法務経験者:石川仁史、弁護士:末石友香、個人情報漏えい調査対応経験者:上妻孝之)が語り合いました。(聞き手:村上尚矢)石川仁史デロイト トーマツ ファイナンシャルアドバイザリー合同会社マネージングディレクターグローバルゲームプラットフォーマー、総合電機メーカー、コンサルティングファームの法務部門にて、契約法務、機関法務(ガバナンス)、戦略法務に従事した後、DTFAに参画。個人情報管理支援(漏洩時対応含む)、プライバシー影響評価(PIA)支援、マイナンバー、ヘルスケアデータ利活用支援、データマネジメントプラットフォーム構築支援などに従事。詳細はこちら 末石友香デロイト トーマツ ファイナンシャルアドバイザリー合同会社マネジャー法律事務所、企業の法務部門にて、情報漏洩対応、情報管理体制構築業務に従事した後、DTFAに入社。大規模有事発生後の個人情報管理体制の再構築支援、海外子会社でのプライバシーデータ取り扱い方針策定支援、ヘルスケアデータ利活用支援などに従事。 上妻孝之デロイト トーマツ ファイナンシャルアドバイザリー合同会社マネジャー2018年にDTFAに参画後、企業が危機に直面した際の危機管理・危機からの脱出を支援するクライシスマネジメントにおいて、不正調査、情報漏洩調査などにIT技術者、プロジェクトマネージャとして従事。近年では、個人情報漏洩事案における有事対応の知見をもとに、平時からの個人情報保護対策支援、プライバシーガバナンスの構築支援にも従事。 プライバシーガバナンスという概念はいつから広まり、その背景には何があるのでしょうか?石川近年のデータ処理技術の向上により、データそのものの扱いは簡単になりました。各種ツールも充実し、企業はそれらを駆使して収集した膨大なデータの適切管理、高速かつ詳細な分析を実現し、ひいては企業経営への利活用についてまで議論するステージに立つようになっています。実際、個人情報よりも広い概念であるパーソナルデータ(個人にまつわる多様な情報)を利用して、消費者の行動や嗜好に合わせたマーケティングの展開、個々のニーズに沿ったサービスや製品の提供を実践している企業は多数存在するといえるでしょう。上妻その一方で、個人情報漏えいやパーソナルデータの不正利用、プライバシー侵害などの事件が増え、頻繁に報道されるようになったことも大きな変化です。それにより、自身のパーソナルデータがどのように利用されているのかに不安を覚える、あるいは法令遵守にとどまらないプライバシーへの配慮を求める消費者が増加しています。加えて、今やソーシャルメディア全盛の時代です。情報は瞬時に広範囲に拡散されていくようになりました。もしも社会や消費者が企業に対して疑念を抱けば、SNSを通じて批判が集中し、いわゆる「炎上」が発生するリスクが高まりました。それを回避するとともに、プライバシー問題の適切なリスク管理と信頼の確保による企業価値の向上を目指し、組織的な取り組みを行う考え方、つまりプライバシーガバナンスが注目されるようになりました。末石名称はともかく、考え方そのものは以前から社会的に認識されていたといえますね。上妻そうですね。そのような背景のもと、2020年8月に経済産業省と総務省が『DX時代における企業のプライバシーガバナンスガイドブック』を策定し、そこでプライバシーガバナンスという名称が登場したことで、概念的に広く認識されるようになったと考えます。末石ちなみに個人情報保護法とプライバシーガバナンスの違いですが、簡単に言えば後者は個人情報保護法を内包しています。つまり法令で定められた個人情報は当然、個人の属性情報、移動・行動・購買履歴、ウェアラブル機器から収集された情報まで対象としているのがプライバシーガバナンスです。これは組織体制や企業風土の整備、消費者に対する発信にも重きを置くため、一個人を守るといった個別対応を行う個人情報保護法とはかなり異なっています。デロイト トーマツ ファイナンシャルアドバイザリー合同会社プライバシーガバナンスの導入が企業にもたらすメリットと、軽視により生じるリスクとは何でしょうか?石川情報の提供については、消費者の意識、世間の見方も大きく変化しました。かつてはアプリ等の約款を読まず、機械的に同意ボタンを押していた人が多かったように思います。しかしここ数年の傾向を見るに、本当にそれでいいのか、自分が提供する予定の情報がどのように使われるのか、誰の手に渡る可能性があるのか、といったことをしっかり考える消費者が増えています。そのため、企業も法令遵守・コンプライアンスリスクだけでなく、レピュテーションリスクを意識せざるを得なくなっています。出典:デジタル社会における消費者意識調査2024https://www.jipdec.or.jp/news/pressrelease/m0p0h60000005qig-att/20240418_01.pdf 一般財団法人日本情報経済社会推進協会(参照2025年4月3日)末石一般財団法人日本情報経済社会推進協会が2024年に行った「デジタル社会における消費者意識調査2024」では、「Webサービスやアプリケーションを利用する際、個人情報の提供に不安を感じるか否か」という問いに対し、80%を超える人が不安を感じると回答しています。さらに35%を超える人がその際にサービスの利用をやめてしまう。もしくは直ちにサービス利用をやめなくとも、約款やプライバシーポリシーを確認する、サービス提供企業に問い合わせるという人を含めると50%を超えるとの結果が出ました。この状況から、企業がプライバシーガバナンスに取り組むメリットは大きく2つあると考えられます。1つは企業イメージの向上です。これは、プライバシーガバナンス構築により、対外的な信用を得られることが理由となります。もう1つは、従業員や経営者のプライバシー意識が高まることによる、プライバシーリスクの低減です。1つ目の対外的な信用獲得、企業イメージの向上について付け加えると、前述した通り、消費者は企業に対して圧倒的に情報の漏えいや第三者提供の回避といったプライバシー保護を求めています。そのため、自社のプライバシーガバナンスへの取り組みを消費者に向けて地道かつ積極的に発信することで、信頼の獲得、サービスの利用度向上につながると考えられます。これは、長期的に見れば企業の競争優位性につながるでしょう。2つ目については、プライバシーガバナンスの取り組みでは個別のプライバシー情報の取り扱い対策よりも、組織体制の整備・企業風土の改善に力点が置かれます。取り組みが浸透すれば、自ずと経営者や従業員が日々の業務においてプライバシー情報の取り扱いに留意するようになるはずです。その結果、組織全体としてのプライバシーリスク低減が実現することになります。上妻今はECサイトなどの発達により、インターネットを使えばなんでも購入できますし、価格比較も容易です。これは企業側から見れば、他社との差別化が難しくなったことを示しています。この課題を解決するための手法は複数考えられますが、プライバシーガバナンスをしっかりと取り組んでいることが差別化を実現する要因になるといえます。石川また、企業のブランド戦略として、自社のファンを獲得するという方法もあります。仮に約款への同意を求める際、「預かったプライバシーデータはこのような形で社会的貢献に活用します」とのメッセージを出している企業があれば、理念に共感する消費者が顧客化するとも考えられますね。末石確かに、それらも大きなメリットになります。反対に取り組みを怠った場合のリスクですが、レピュテーションへの影響は見逃せない事項です。実は、過去の個人情報保護法に関する炎上事件の多くは、問題となった行為がなされた時点では、当時の法令に正面から違反していない、グレーゾーンにあるものでした。しかし消費者からの反発が強く、そのような世論に追随する形で個人情報保護法が改正され、規制が明確化しました。それにより、後から見ると法令に違反した状態になってしまったのです。こうなってしまうと、法令上直接的な違法行為はないとしてもレピュテーションに大きな傷がつくことは避けられません。プライバシー情報を多く取り扱う企業を筆頭に、各企業が徐々に体制を整備してきている中、不十分な体制しか持たないでいると、有事の際にビジネス自体が継続できなくなる可能性も十分に考えられます。また、消費者という名の世間、あるいは法律の改定を常に注視していなければ、企業そのものが時代の流れから大きく立ち遅れてしまうこともあり得ます。<参考>「デジタル社会における消費者意識調査2024」一般財団法人日本情報経済社会推進協会https://www.jipdec.or.jp/news/pressrelease/m0p0h60000005qig-att/20240418_01.pdf企業の信頼性を高めるためにプライバシーガバナンスへ取り組む(後編)に続く>>

社会的信頼の獲得とプライバシーガバナンス
総合

第3回 サプライチェーンにおける人権リスクと対応

国連の「ビジネスと人権に関する指導原則」(以下、「国連指導原則」)(*1)や日本政府が策定した「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」(以下、「ガイドライン」)(*2)において、企業は「日本国内のみならず世界各地における自社・グループ会社と記載されています。自社の製品・サービスと直接関連する限り、サプライチェーンにおける「負の影響」(人権侵害・そのリスク)についても、「自社の責任」として対応が求められます。取引先等において人権侵害が発生したとしても、「当社と資本関係のない企業であり、当社とは関係がありません」と説明することは、国連指導原則等に則した対応とはなりません。本記事では、法規制などで定められる企業の人権リスクの責任範囲、サプライチェーン上の人権リスクとその影響、実際にサプライチェーン上で起きたグローバル企業における人権侵害の事例、サプライチェーンにおける人権リスクへの対応について解説します。*1ビジネスと人権に関する指導原則:国際連合「保護、尊重及び救済」枠組実施のために(A/HRC/17/31) | 国連広報センター *2責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン|ビジネスと人権に関する行動計画の実施に係る関係府省庁施策推進・連絡会清水 和之デロイト トーマツ ファイナンシャルアドバイザリー合同会社パートナー有限責任監査法人トーマツにて上場企業等の法定監査業務に従事した後、DTFAに参画。企業が危機に直面した際の危機管理・危機からの脱出を支援するクライシスマネジメントにおいて、企業の会計・品質偽装・贈収賄等コンプライアンス不正調査案件、企業不正からの改善・再生プロジェクト、クライシスマネジメント対応支援、サプライチェーンリスクマネジメント、人権DDなどに従事。詳細はこちら 大沢 未希デロイト トーマツ ファイナンシャルアドバイザリー合同会社シニアコンサルタント 大手総合電機メーカー、総合コンサルティングファームを経て、DTFAに入社。企業の危機管理および危機からの脱出を支援するクライシスマネジメントサービスにおいて、大手企業の危機対応、再発防止策策定・実行、M&A案件におけるビジネス・インテリジェンスサービス、人権課題対応支援などのプロジェクトに従事。 企業の人権リスクの責任範囲グローバルサプライチェーンの広がりに応じて、企業が国内外の自社ビジネスやサプライチェーン全体で人権尊重に取り組むことが求められています。サプライチェーンの末端における児童労働、安い労働力による搾取などといった人権侵害が明るみに出はじめ、企業として責任ある対応を求める声が世界中で高まりました。このような背景を経て、2011年の「国連指導原則」の採択をきっかけとし、各国において人権尊重の取り組みに関する法規制の施行やソフトロー化が急速に進められています。日本においてもこの潮流を受け、2020年には「ビジネスと人権」に関する行動計画(2020-2025)(以下、「行動計画」)が日本政府により策定され、さらにその取り組みの促進のための「ガイドライン」が2022年に策定されました。これらの法規制やガイドラインでは、企業は自社・グループ会社のみならず、サプライチェーン全体における人権リスクを適切に管理・監督する責任があると定めています。例えば「国連指導原則」では、「たとえその影響を助長していない場合であっても、取引関係によって企業の事業、製品またはサービスと直接的につながっている人権への負の影響を防止または軽減するように努める」と記載しており、自社が直接人権に悪影響を及ぼしていない場合であっても、取引先による人権侵害が起こっていれば、防止や軽減に努めることを求めています。2024年7月にEUで発令された「企業持続可能性デューデリジェンス指令(CSDDD)」では、一定の売上高等の要件を充足する企業(以下、「適用企業」)に、自社及び子会社の事業のみならず、「chain of activities」(*3)と定義された上流及び下流の事業活動全般に関する人権及び環境のデューデリジェンスの実施や開示等を義務付けています。2020年に日本で策定された「行動計画」においても、基本的な考え方として「サプライチェーンにおける人権尊重を促進する仕組みの整備」を実行計画に定めており、人権を尊重する企業の責任を促進するための政府の取り組みは国内外のサプライチェーン全体を対象としています。*3DIRECTIVE (EU) 2024/1760 OF THE EUROPEAN PARLIAMENT AND OF THE COUNCIL サプライチェーン上の人権リスクとその影響サプライチェーン上の人権リスクは多岐に渡ります。例えばメーカーでは、材料などの「調達」、「生産」、「販売」、「流通」等といった一連のプロセスによって事業活動が営まれますが、「調達」の段階では、鉱物資源の調達時における紛争地での人権侵害への加担といった人権リスク、「生産」では取引先の下請工場による児童労働や強制労働といった人権リスク等、全ての事業活動のステージにおいて、人が関与している限り、人権侵害が起こる可能性があります。そのため、一つのプロセスだけでなく、事業活動の全てのプロセスにおいて、サプライチェーン全体における人権リスクの可視化が求められます。図1 サプライチェーンにおけるコンプライアンスリスクこれらのサプライチェーン全体を含めた人権リスクの適切な管理・監督を怠ることで、中長期的には、レピュテーションの毀損、訴訟、ストライキといった多様な事象に対処する必要に迫られることになる可能性があります。人権リスクに適切に対応しない場合の経営リスクの例を挙げますと、例えば、サプライチェーン上の人権侵害が明るみに出ることで、不買運動などによる消費者購買の減少、取引先の調達基準を充足できないことによる取引停止、海外諸国において製品の輸入禁止措置を受ける等、売上や仕入への影響をきたす「オペレーションリスク」があります。また、昨今の欧州をはじめとする各国における法規制は、違反した場合多額の罰金を課す等の罰則が規定されている場合が多く、人権侵害を被った被害者などからの訴訟により、多額の賠償金の支払いが課される可能性があります。このような訴訟や訴訟対応コスト、法令違反による課徴金等による大幅なコスト増につながる可能性のある「法務・レピュテーションリスク」があります。さらに、法規制への違反の罰則として企業名を公表されるなどといった措置による企業イメージの悪化、それによる投資家からの評価減による株価の下落、などといった企業価値の毀損につながる「財務リスク」があります。こうした人権リスクを回避し、事業を安定的かつ継続的に維持するため、企業は人権を事業活動上の重要なリスク・ファクターとしてとらえ、その低減に努める必要があります。図2 人権対応への遅れがもたらす重要な経営リスク グローバル企業におけるサプライチェーン上の人権侵害の事例人権を経営リスクとして捉え、サプライチェーンまで含めた人権デューデリジェンスに取り組むグローバル企業は増加傾向にありますが、関係企業や取引先といった一次サプライヤーまでリスク管理対象範囲としている企業は多い一方、その先の二次サプライヤー以降までをも管理対象としている日本企業はまだそれほど多くありません。当社が2023年に実施した「人権サーベイ2023」(上場企業を中心に約100社に対し人権意識や各企業の取り組み状況を調査)では、「サプライチェーンにおいて、どこまでをリスク把握・管理の対象としていますか」といった質問に対して、約9割の企業が2次サプライヤーまで人権リスクを把握できていないと回答しました。図3 サプライチェーンにおけるリスク把握・管理の対象範囲出所:デロイト トーマツ ファイナンシャルアドバイザリー合同会社「人権サーベイ2023」ここで実際に、二次サプライヤー以降で発生した人権侵害への責任が、発注元の企業に問われた事例(*4)を紹介します。グローバルに事業を展開するD社、S社、T社、N社は、ライセンス使用権限をタイにあるライセンシー(元請け)に譲渡し、元請けは、下請けの縫製工場(A工場、B工場)に依頼し、キャラクターグッズ等の製造を依頼していました。2019年、複数の下請工場において、ミャンマーからの移民労働者に対し、最低賃金に満たない給与を支払っていたことが判明しました。図4 グローバル企業におけるサプライチェーン上の人権侵害の事例当局はA工場、B工場のオーナーに未払い分の給与を労働者に支払うよう命じ、A工場のオーナーは、約18百万タイバーツ(日本円換算で約79百万円)の補償金を支払いました(図4①)。一方で、B工場のオーナーは、家宅捜索後に事業を閉鎖したため、約3.5百万バーツ(日本円換算で約15.4百万円)分の未払い賃金が支払われない状態となりました。そこで労働者たちは、裁判所に訴訟を起こし、B工場のオーナーに未払い賃金の支払いを求めました。結果、労働者はB工場のオーナーから約1百万バーツ(日本円換算で約4.4百万円)の未払い賃金の支払いを受けることで和解に合意しました(図4②)。しかし、残りの2.5百万バーツ(日本円換算で約11百万円)については未払いのままとなりました。このような状況において、世論から発注元であるトップブランドの各社(D社、S社、T社、N社)においても、サプライチェーン上の労働者に対し未払い賃金の支払い責任を負うべきだといった批判の声があがりました。結果、残りの未払い賃金2.5百万バーツ(日本円換算で約11百万円)については、発注元各社が労働者に対し直接補償を行うこととなりました(図4③)。また、発注元各社は補償対応をより迅速に行うべきであったと、対応への遅れに批判の声が挙げられました。このように、直接契約等の効力が及ばない二次サプライヤー以降であっても、サプライチェーン上で発生した人権侵害への対応や賠償が要求されたり、自社製品やブラント、レピュテーションへ影響したりする、といったリスクがあります。グローバルにビジネスを展開する企業にとって、サプライチェーンの持続性を保つことは不可欠であり、リスクの低減を図るためには、高い管理水準をサプライチェーン上の企業にも適用することが肝要です。*4Thailand: Starbucks, Disney, Tesco & NBC commit to compensate illegally underpaid migrant garment workers in their supply chains - Business & Human Rights Resource Centre サプライチェーンにおける人権リスクへの対応企業はサプライチェーン全体を含めた人権尊重責任を果たすため、サプライチェーンの段階に合わせて人権リスクへの対応を実施していく必要があります。図5 サプライチェーンにおける人権リスクへの対応図5は、サプライチェーンの広がりに応じた人権リスクへの統制について示したものです。本社においては、自社内におけるガバナンスと統制を効かせることで、人権リスクを低減することが可能です。次に、日本や海外にある子会社に対しては、資本関係や株主権限によるガバナンスを利かせることができる範囲であり、人権リスクの発生を抑えていくことが可能です。次にサプライヤーの階層ですが、一次サプライヤーとは契約書を締結するので、契約書に人権条項を入れる形で影響力を高める法的アレンジメントが可能となります。ただし、人権条項の内容によっては努力義務に留まるなど、実効性の確保には相応の努力が必要となります。さらにその先の二次サプライヤーや三次サプライヤー等については、本社と直接的な契約がないため、本社による統制が効かない範囲となります。資本関係や契約書などの直接的な関係性がないため、人権リスク調査などの対応は依頼ベースとなり、「交渉」が必要となります。二次サプライヤー以降など自社グループから遠くなればなるほど、サプライチェーンの統制は難しくなります。そのため、まずは、二次サプライヤー以降も含めたサプライチェーン全体の可視化を行い、それぞれのサプライチェーンにおける潜在的な人権リスクを調査したうえで、自社の事業特性などを踏まえて人権リスクを評価します。二次サプライヤー以降に対するリスク調査は、上記の通り依頼ベースとなるため、円滑なコミュニケーションを図ることができる、一次サプライヤーの購買担当者を窓口にするなどといった工夫が必要となります。また、リスク評価の結果、二次サプライヤーにおいて高リスクの人権リスクが発見された場合は、オンサイトで人権デューデリジェンスを実施する等の対応を取ることが推奨されます。特に、それらの取引先が海外にある場合、対象となる従業員等は社会的に脆弱な立場にあるステークホルダーである可能性があり、より深刻な負の影響を受けやすいため、特別な注意を払う必要があります。オンサイトで人権デューデリジェンスを実施する際は、現地言語が通じる人員によるインタビューの実施、現地従業員がどのような人権侵害を受けたか判断するため、現地法律に対する理解が重要となります。これらに自社で対応することが難しい場合は、外部専門家の活用も選択肢となります。 おわりに欧米をはじめとする世界的な法規制や社会的要請が強まる中、サプライチェーンにおける人権侵害リスクを防止・軽減する取り組みは、企業の社会的責任を果たすために不可欠です。「人権」を重大な経営リスクと捉え、企業が人権を尊重した経営を実践することは、サプライチェーンに広がる多様な人権リスクを予防することにつながります。二次サプライヤー等自社グループから遠い場所から人権侵害が発生したとしても、人権侵害は自社製品/商品/サービスやブランドに直接的な影響があります。よって、自社のサプライチェーンを可視化し、自社の統制が直接効かない二次サプライヤー以降のサプライチェーンに対しても人権デューデリジェンスを実施していくことが求められます。「ビジネスと人権」シリーズ最終回は、人権を尊重する経営のためには、具体的にどのような取り組みを行うべきかを解説します。<<第2回 日本における「ビジネスと人権」の動向はこちらから第4回 人権を尊重する経営のための取り組みに続く>>関連書籍サプライチェーンにおける人権リスク対応の実務ー「ビジネスと人権」の視点で捉える、リスクの可視化とデュー・ディリジェンスの実践

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経済

欧州の防衛費増加への転換が成長を後押しする可能性

景気循環による経済的影響は企業にとって不可避なものです。しかし、世界および地域経済に対し長期的な見通しを持つことにより、企業は景気循環のリスクを最小化することができます。デロイトは、世界のビジネスリーダーたちに必要な、マクロ経済、トレンド、地政学的問題に関する明快な分析と考察を発信することにより企業のリスクマネジメントに貢献しています。本連載では、デロイトのエコノミストチームが昨今の世界経済ニュースやトレンドについて解説します。今回は、Deloitte Insightsに連載中のWeekly Global Economic Updateの2025年3月17日週の記事より抜粋して日本語抄訳版としてお届けします。Ira KalishDeloitte Touche Tohmatsuチーフエコノミスト経済問題とビジネス戦略に関するデロイトのリーダーの1人。グローバル経済をテーマに企業や貿易団体への講演も多数行っている。これまで47の国々を訪問したKalish氏の解説は、ウォール・ストリート・ジャーナル、エコノミスト、フィナンシャル・タイムズなどからも広く引用されている。ジョンズ・ホプキンス大学国際経済学博士号取得。 欧州では、防衛費を大幅に増額するべきだという意見が広がりつつあります。フィナンシャル・タイムズにおける最近の調査によると、米国を信頼できる同盟国と見なす欧州人はわずか16%でした。地政学的な影響を別とすれば、欧州の防衛費増加は財政出動を通じて欧州の成長を復活させる手段となりえます。特に、この歳出は借入の増加によって資金調達される可能性が高いためです。成長が速まれば、欧州の資産は世界の投資家にとって魅力的になり、ユーロの価値が上昇する可能性があります。また、成長が速まることは、借入コストの上昇や欧州中央銀行(ECB)による金融緩和のペースが遅くなることを意味します。NATOの枠外での共同防衛能力を開発する過程で、欧州はユーロの国際的な役割を強化する基盤を整えることができるかもしれません。欧州連合(EU)による共同債発行は、欧州が大規模かつ流動性の高い欧州債のセカンダリーマーケットを創出する方向へ進むことを意味し、将来的には米国債支配に挑戦する可能性があります。米国の巨大な国債市場は、ドルが世界における支配的な通貨である一因となっています。しかし、欧州の政府や投資家はドルへの依存を減らしたいと考えている可能性があります。欧州の財政的な再生の鍵となるのは、欧州最大の経済大国であるドイツです。新政権は、つい最近までは考えられなかった規模の国債発行に取り組む可能性があります。この考え方の変化は、米国の対欧州政策の変化によって促進されています。フィナンシャル・タイムズによる経済学者への調査では、ドイツはほぼ問題なく約2兆ユーロの債務を増やせる可能性があるとしています。同国の現在の債務残高の対GDP比が比較的低いためです。ドイツ国債は、他のすべての欧州国債の基準となります。ドイツ国債残高が劇的に増加すれば、ユーロが米ドルに代わる準備通貨および取引通貨としての地位を部分的に獲得することが可能になるかもしれません。※本記事と原文に差異が発生した場合には原文を優先します。Deloitte Global Economist NetworkについてDeloitte Global Economist Networkは、デロイトネットワーク内外の視聴者向けに興味深く示唆に富むコンテンツを発信する多様なエコノミストのグループです。デロイトが有するインダストリーと経済全般に関する専門知識により、複雑な産業ベースの問題に高度な分析と示唆を提供しています。デロイトのトップマネジメントやパートナーを対象に、重要な問題を検討するレポートやThought Leadershipの提供、最新の産業・経済動向にキャッチアップするためのエクゼクティブブリーフィングまで、多岐にわたる活動を行っています。

海外レポートから読み解く世界経済
社会

NEC×デロイト トーマツ、ブランド価値評価の取り組み(後編)

125年の歴史を持つグローバルテックカンパニーであるNECが、自社のブランド価値の定量化に取り組み始めた過程について話を伺った前編。後編ではプロジェクトが具体的にどのように進められていったかをお聞きしました。もちろん、何もかもがスムーズに進んだわけではありません。いくつかの難点をクリアし、成果を生み出すために、NEC・デロイト トーマツはどのように取り組んだのか、それに加え、定量化に続く、ブランド価値向上のための今後の取り組みについてもお話しいただきました。ブランド価値可視化を実現するまでの道のり——NECで実践されたブランド価値の定量化の取り組みについて教えてください。角谷(NEC 経営企画・サステナビリティ推進部門 ブランドエクイティエグゼクティブ)企業のサステナビリティを示す一環として、無形のブランド資産への投資や活用戦略を順次開示していきたい。そのためにはガバナンス構築に取り組み、投資家や金融機関から適切な評価を受けることを最終目標に定めました。そこから何をすべきか落とし込み、ブランドが企業価値向上に貢献していることの証明、ブランド価値の他社比相対評価、「意味のある」ブランド活動の実践と効果測定に取り組んでいくこととしたのです。——最初に着手したことは何ですか。長谷川(NEC 経営企画・サステナビリティ推進部門 ブランドエクイティマネジメント室長)まずはブランドが企業価値向上に貢献していることを証明するために、デロイト トーマツからPPA(Purchase Price Allocation)というM&Aの手法でブランドの価値を疑似的に評価することをご提案いただきました。複数の評価手法のうち、ロイヤリティ免除法(第三者からブランドの使用許諾を得る際に、支払うロイヤリティコストが節約されるという想定に基づく評価)を使うのか、超過収益法(企業の収益から、ブランド以外の貢献資産の期待収益を差し引いた残余の利益を基に評価する)を使うのか、どのようにほかの無形資産の金額を認識していくのかなど、NECからも質問を重ねてデロイト トーマツにご支援いただきながら、一つ一つ詰めていきました。パートナーとしての信頼と伴走型での支援——今回のプロジェクトを推進する際、デロイト トーマツと協働することを選んだのはなぜですか。森(NEC 経営企画・サステナビリティ推進部門 ブランドエクイティマネジメント室 主任)私たちから商標やロゴだけでなく、ブランド活動を含めた価値を算出したいと希望したことが、擬似PPA選択の決め手になりました。これは、これまでにない新しい取り組みで、デロイト トーマツの専門知識を学びながらも、伴走いただいた成果もあり、単に定量化するという目的だけでなく、そもそも企業価値とは?資産とは?企業価値のうちどの程度が無形資産なのか?といったように様々な角度で議論を深められるようになりました。新しい領域の理解と浸透——価値算出の難点になった部分はありますか。森NECとしては、公開財務データを用いてホワイトボックス型で算出をしたいというこだわりがありました。これは、自分たちで算出の根拠・過程を理解し、数字を出せるようにする、つまり経営陣・社員にもきちんと説明できる形を取りたいと考えたことに加え、今後もブランド価値金額の推移を経年で追っていく必要があったためです。最初は理解が及ばず、同じような質問を繰り返してしまいましたが、デロイト トーマツから丁寧な説明を頂けたことで私たちのレベルも上がりました。今回は社内への説明、今後の活用も含めて数字を整理していったのが特徴と捉えています。福嶌(NEC 経営企画・サステナビリティ推進部門 ブランドエクイティマネジメント室 主任)デロイト トーマツから知識を吸収した私たちメンバーと異なり、ブランドはまだまだ大きな資産の一つとして捉えられていないですし、ましてやPPAという手法を知らないことのほうが一般的です。そうした中で、プロフェッショナルであるデロイト トーマツではなく、私たちから説明し理解してもらうのはかなり苦労する部分でした。専門的な内容を可能な限り簡潔にシンプルにまとめつつ、とはいえ嘘や間違ったことは言ってはいけないので、デロイト トーマツに確認・ご支援いただきながら、地道に丁寧に理解・浸透を進めました。自分ごとへの小さな変化の兆し——この取り組みによって得られた効果はどのようなものですか。福嶌前編でも話に出ましたが、NECグループのブランド価値金額が可視化できたこと。そしてそれを社員一人当たりのブランド価値創出として社内公開できたことです。また、競合他社のブランド価値金額も算出、比較することができるようになりましたし、NECが目指すべきブランド価値金額も設定できました。ブランド価値の算出が可能になり、定量化できたことで、「ブランドに価値があるのか」という話から「次は何をするべきか」という前向きな議論が増えたことが非常によかったと思います。角谷とはいえ、私たちの活動はまだまだ道半ばにあります。ブランドは人の心の中にあるもので、私たちがマネージすることはできません。人々がどう思っているか、社会の声に常に耳を傾けて、私たちの思い込みではないものをしっかり捉えていく必要があるでしょう。一方で従業員に関しては、NECグループブランドは社員一人ひとりが創っていくもの、NECブランドを持続可能かつ成長し続けるものにしていくためには、各自が自分ごと化して、ブランド価値・企業価値向上を目指すことが必要と伝えていきたいと考えています。森実際に一人当たりのブランド価値創出を、全従業員が見られるポータルサイトで伝えたところ、「ブランドの重みを感じた」「一人当たりのブランド価値創出は意外と低いと思った」「どのように価値向上させていくか考えたい」などのコメントが寄せられました。まだまだ反応は少ないですし、それぞれ捉え方は異なりますが、このような意見が社員から出てくるような環境に変わっていくということ自体が非常に大切だと考えています。可視化はあくまで第一歩——ブランド価値向上についての現状、今後の展望について教えてください。角谷現代の企業会計のルールに則り、企業が支配できる、測定・管理可能なものの中で算出したのが今回のブランド価値です。ブランドという目に見えないものを可視化でき、社員の自分ごと化につながったという点で大きな前進ですが、自分ごと化のさらに先の具体的なアクションにつなげるにはもう一歩必要だと考えています。ブランドエクイティマネジメント室では、社会がNECをどう思っているのか、つまり”民意”についても、並行して実施している企業ブランド調査を通して定点で計測しています。調査結果をスコア化し、インデックスにしてこちらも管理可能にすることで、NECブランドの目指すべき方角を定め、意味のあるブランド活動につながるような示唆を提示しています。これらの活動を組み合わせ、社員一人ひとりがブランドを自分ごと化し、さらに民意もきちんと理解したうえで、ブランド価値、ひいては企業価値に必要なアクションを自分で考え行動できるような仕掛け・仕組みづくりを目指していきたいと思います。<<NEC×デロイト トーマツ、ブランド価値評価の取り組み(前編)はこちらから

イノベーション

製薬業界における開発パイプラインの取引に関するアーンアウト構造の評価(後編)

前編では、日本及びグローバルにおけるライセンス案件の取引傾向について、過去のデータを参考に考察を進めていきました。後編ではライセンス取引の設計について、詳細に説明します。製薬業界におけるライセンス取引の背景製薬業界においてライセンス取引とは、第三者が新薬やモダリティに関連する将来の経済的利益の一部を、即時または条件付きの支払いと引き換えに取得するプロセスを指します。この取引では、買手(ライセンシー)が売手(ライセンサー)から医薬品に関する法的および経済的権利を取得し、対価を支払います。それに対し、売手は医薬品の特定の権利を譲渡するとともに、一定の責任を保持します。ライセンス取引は、開発の早い段階で行われることが多く、後の開発コストを抑えるとともに、大手製薬企業がスタートアップの専門知識を活用する手段として利用されます。これにより、買収や統合のコストやリスクを軽減する効果があります。ライセンス取引には様々な形態が存在し、具体例は以下の通りです。アセット購入対象資産に関する法的な支配権を取得する。これには、開発、製造、販売の権利が含まれる。基本的ライセンス買手(ライセンシー)が開発や商業化に関する全ての管理および支払いを引き受ける。共同販売両当事者が同一の地域内で同一または異なるブランド名で製品を販売し、収益を計上する。共同販促両当事者が製品の販売促進責任を分担する。ライセンス・エクイティ買手がライセンス契約を実行する際、売手に少額の投資を行う。オプション付きライセンス契約買手が将来のライセンス契約を実行する権利を取得するために、現在において一定額の支払いを行う。サプライ契約付きライセンスライセンサー(売手)がライセンス契約に基づき継続的に製品をライセンシー(買手)に供給する。製薬業界でのライセンス取引は、以下のような状況を背景に行われることが多いです。近年の研究によると、新薬の研究開発(R&D)には約900百万USDのコストがかかる可能性があり、これは多くの企業にとって資金調達能力を超える金額となる場合があります。Paulらの研究(2010年)(*1)では、前臨床試験の段階だけでも約19百万USDのコストがかかるとされており、フェーズ1では約15百万USD、フェーズ2では約40百万USD、フェーズ3では約150百万USDに達すると見積もられています。フェーズが進むにつれて臨床試験はより複雑化し、それに伴いコストも大幅に増加する傾向があります。このような高額な開発費用が、新薬開発のハードルをさらに高くしているのが現状です。他の産業と同様、製薬業界でもベンチャー企業がイノベーションを担うトレンドにシフトしています。安定した資金基盤を持つ大手製薬企業とは異なり、ベンチャー企業は、既に市場で販売されている製品のポートフォリオを持たないため、開発を進めながら資金を効率的に管理する必要性が高まっています。この状況が、ライセンス取引の需要をさらに押し上げています。新薬がアイデア段階から市場投入されるまでの成功確率は、研究によれば5,000分の1と推定されています。このような高リスク・高コストの状況下では、資金調達やリスク分散のためにライセンス取引が行われるのは当然とも言えます。*1 Paul, S.M. et al. (2010) How to improve R&D productivity: The pharmaceutical industry's grand challenge. Nature Reviews Drug Discovery. 9(3), 203-214一時金一時金は、新薬やモダリティの開発においてこれまでに発生した開発費用に関連していると見なされることが多いです。理論上においては、一時金がこれまでにかかったサンクコストと明確に対応している必要はありませんが、実務においては、一時金が主開発者の資金問題を緩和し、次の開発フェーズへの活動継続を可能にする役割を果たすことがあります。別の見方をすると、一時金は開発者がその時点までに投じてきた研究開発コストの回収であると考えることができます。そのため、商業化から遠い段階では、技術の現時点での価値が限られていることを反映して、一時金は少額になる傾向があります。マイルストーン支払い一時金やロイヤリティフィーに加え、特定のトリガーイベントの達成を条件とした支払いが存在します。これがマイルストーン支払いと呼ばれるものです。この支払いは、研究開発(R&D)マイルストーン、規制当局承認マイルストーン、販売マイルストーンのいずれか、またはその全てを組み合わせた形で行われます。概念的には、マイルストーン支払いはM&A取引におけるアーンアウト支払いに似ており、売手(ライセンサー)と買手(ライセンシー)の間の評価ギャップを埋める役割を果たします。ただし、M&A取引と比較すると、マイルストーン支払いはライセンス取引において取引全体の価値の中でより大きな割合を占める点が異なります。その背景として、ライセンス取引では対象資産がまだその潜在的価値を実現していないのに対し、M&A取引では対象企業が実績のある事業基盤を有していることが挙げられます。マイルストーン支払いは一括で支払われることが一般的ですが、売手(ライセンサー)のリスクを軽減するために、各マイルストーンをさらに細分化し、分割支払いを導入するという選択肢も存在します。ただし、その実施は難しい課題を伴います。多くの場合、売手(ライセンサー)は資金繰りに苦慮するバイオテクノロジー企業であり、交渉は通常、大手製薬企業(買手/ライセンシー)主導で進められます。ただし、売手が特に注目される新規モダリティを含む優れたパイプラインを保有している場合や、複数買手候補(ライセンシー)によるビッドなどの競争的なプロセスを通じて最良の買手/条件を選択する場合には、売手側が交渉の主導権を握ることも可能です。ロイヤリティフィーライセンス契約では、一時金やマイルストーン支払いに加えて、売上収益に基づくロイヤリティフィーが含まれることがよくあります。この支払い方法は、取引の経済的背景、特に取引対象のバリュエーションに関する不確実性を考慮したものだと考えられます。医薬品においては、相当額の開発コストが初期段階に発生する一方で、キャッシュ・インフローは長期的に回収されます。このため、割引率の影響が大きくなり、結果として初期のインプットのわずかな違いが増幅されてバリュエーション結果に重大な影響を与えます。バリュエーション結果の不確実性とアップサイドおよびダウンサイドリスクを考慮すると、新薬のライセンス後および商業化後の利益を共有する手段として、純売上収益に基づくロイヤリティフィーが合意される形態が一般的です。ロイヤリティフィーは新薬のライセンス供与と商業化後にのみ行われることから、売手(ライセンサー)目線では当該新薬全体の事業計画と同等の商業的リスクにさらされます。また、割引率の影響を受けるため、開発の現段階が早ければ早いほど、その影響は増幅されます。実務上、固定的な一時金と長期的な条件付きロイヤリティフィーの割合について、取引当事者間で交渉が行われることが一般的です。開発者の視点では、ロイヤリティフィーの特性を踏まえ、一時金やマイルストーン支払いを重視した支払い構造を好む傾向があります。一方で、買手の視点では、一時金を重視することで開発者が商業化までの開発努力を続けるインセンティブを失ってしまうリスクがあると見なされる場合があります。時間価値の影響 新薬や技術の評価額について基本合意が得られた後、次のステップとして、一時金や固定支払い、将来の条件付き支払いの配分を検討することになります。これらの条件付き支払いは通常、後の段階で発生するため、貨幣の時間価値(現在価値)、つまり割引計算の影響を受けます。例えば、評価額が100とされ、その支払いを50ずつの2回に分けるとします。2回目の支払いが2年後に発生する場合、10%の割引率を適用し(期末時点での割引と仮定)、2回目の50の支払いは現在価値で41(50 x 0.826の現在価値係数)となります。このように、後の段階で発生する支払いは現在価値に換算されるため、実際の価値が目減りすることになります。割引の取り扱いは、マイルストーン支払いが発生する場合の会計処理にも関係します。国際財務報告基準(IFRS)の下では、通常、このような支払いの公正価値がバランスシートに計上されます。しかし、商業的な観点から見ると、貨幣の時間価値を考慮することはマイルストーン支払いのデメリットと見なされる場合があります。このため、売手は対価のより多くの割合を一時金として受け取ることを好む傾向があります。オプション性の考慮将来の条件付き支払いにおいては、貨幣の時間価値の影響に加え、その中に含まれるオプション性の性質も重要な要素として考慮する必要があります。マイルストーン支払いの場合、新薬の商業化に向けた開発ハードルを達成することが条件となります。このような支払いでは、売手(ライセンサー)は開発目標が達成されないというリスク(ダウンサイドリスク)を一方的に負いますが、目標達成による利益(アップサイドリスク)を享受することはできません。一方、売上ロイヤリティフィーの場合、支払いは新薬の販売後の売上実績に基づいてスライドスケール(段階的な割合)で設定されることが一般的です。この場合、売手は商業化後の売上が成功した場合に利益を享受できるため、アップサイドリスクの恩恵を受ける可能性があります。このように、マイルストーン支払いとロイヤリティフィーは、それぞれ異なるリスクとリターンの特性を持つため、多くのライセンス取引においてこれらを組み合わせることが一般的です。この組み合わせにより、売手と買手の双方にとって、リスク調整後の適切なリターンを確保することが可能となります。投資家のニーズのバランスマイルストーン支払いと条件付き支払い(マイルストーンまたは売上ロイヤリティフィーのいずれか)を組み合わせる際には、売手(ライセンサー)と買手(ライセンシー)のインセンティブや立場のバランスを取る必要があります。ライセンサーが限られた製品パイプラインしか持たず、商業化された製品がなくキャッシュフローが安定していない開発段階の会社である場合、資金不足に陥っている可能性があります。このような場合、ライセンサーの視点からは、早期のマイルストーン支払いを高額に設定することが好まれることがあります。一方、ライセンシーの視点では、早期の高額なマイルストーン支払いは条件付きの要素が少ないため、臨床開発や試験を継続する十分なインセンティブを提供できない可能性があります。一部の投資家はライセンサーに対してのリスク許容度に応じ、開発初期段階の技術への投資を好む場合もあります。これは、新薬が開発され、後に他の業界プレイヤー(例えば大手製薬会社)に再ライセンスまたは売却されることで、将来的に大きな利益を得ることを期待してのことです。前臨床段階の投資においては、特にアメリカではベンチャーキャピタル投資が資金の重要な供給源となりつつあります。この分野では、専門知識を持ち、リスク許容度の高い企業が投資を行うことが多いです。ベンチャーキャピタル投資家はリスクを限定するため、R&Dの段階(例:新薬開発のタイムラインに沿った異なる段階)やモダリティ、治療分野、潜在的リターン、成功確率の評価などを通じて投資を分散させる傾向があります。これにより、投資リスクを最小限に抑えつつ、将来的な利益を追求しています。投資家の必要な期待収益率投資家と被投資者の視点、高い失敗リスク、商業化までの長い期間といった要因を統合的に考える方法の一つとして、初期段階の投資における内部収益率(IRR:Internal Rate of Return)を検討することが挙げられます。売手(ライセンサー)は、初期の臨床研究や開発に対する対価として、一時金または後に支払われる条件付き対価を受け取ることがあります。しかし、一時金とマイルストーン支払いの割合によっては、支払い時期が遅くなるほど割引の影響を受け、IRRが低下する可能性があります。これらの収益を、技術開発の進展に伴う失敗リスクがあらかじめ織り込まれているベンチャーキャピタル投資の期待収益率と比較することで、評価額の妥当性をクロスチェックすることができます。また、IRRの代わりに投資収益率(ROI:Return on Investment)を用いるという選択肢もあります。例えば、研究開発に投入された資金の何倍を回収できるかどうかを確認することで、提案されたライセンス契約によるリターンが十分なものかどうかを評価することができます。以下に、ベンチャーキャピタル投資が通常期待する収益率の一部を示します。収益をまだ生み出していない段階(収益前段階)の投資では、失敗リスクが高いことを補うために、必要な収益率が相対的に高くなる傾向があります。必要な期待収益率は、事業の性質(特に開発段階や、事業計画に明示的に反映されていない技術的リスクや商業化リスク)に依存しますが、ご覧の通り、必要な収益率には大きなばらつきがあります。特に、初期段階の投資においては、期待される収益率が著しく高くなる傾向があります。初期段階の投資では、事業計画の前提条件が後期段階の投資ほど実態の伴ったものでではない場合が多いため、他の条件が同じであれば、期待される収益率が上昇する傾向があります。ライフサイエンス分野に適用する際には慎重さが求められますが、この視点は、例えばマイルストーン支払いについて交渉を行う際に、当事者間の参考になる可能性があります。結論一時金と後払いの条件付き支払いの適切なバランス調整は、個々の取引の事実や状況に基づいた交渉により決まる問題です。今回は、このような契約を交渉する際の「技術的な背景」に関するいくつかのポイントを取り上げました。本稿が、今後の参考として役立つことを願っています。<<製薬業界における開発パイプラインの取引に関するアーンアウト構造の評価(前編)はこちらから

研究員の視点

トランプ関税がコンシューマー企業にもたらす影響

米国トランプ大統領が相互関税を発表したことで日本では、自動車をはじめとする主要な輸出産業で懸念が広がっている。北米向け輸出への直接的影響は避けられないからだ。一方、内需を中心とするコンシューマー産業に関しては、景況感悪化や賃上げ鈍化を経由した間接的影響が指摘されるにとどまっている。そこで本稿では、小売り、食品メーカー、アパレル、消費財・FMCG(日用消費財)企業を念頭に置きながら、コンシューマー産業にもたらす5つのリスクについて、どのような影響がいつ発現するのか考察した。不確実性をもたらす相互関税コンシューマー企業への影響は?米国の関税政策は日本の輸出産業にリスクを及ぼすと懸念されている。図表1のように対米輸出1,480億ドル(約22兆円)のうち、自動車、生産用機械、エレクトロニクスといった産業の構成比は71%を占める。相互関税措置の発表を受けて4月8日に設置された内閣官房の総合対策本部[1] では、すそ野の広い自動車関連産業に対する影響への懸念が表明された。一方、内需系産業について主に指摘されているのは、景況感や賃金見通しの悪化に伴う、個人消費の抑制を経由した間接的影響である。しかし、内需を中心とするコンシューマー産業も輸出産業と同様に不確実性にさらされている。本稿では小売り、食品メーカー、アパレル、消費財・FMCG企業を主に念頭として、想定されるリスクのポイントを示したい。なお、消費税をはじめとする非関税障壁の動向については議論しない。【図表1】 米国の日本からの輸入品目データソース:内閣官房. (2025年4月8日).「資料2経済産業大臣説明資料 米国の関税措置に対する国内対応について」(https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/tariff_measures/dai1/siryou2.pdf)をもとに作成関税政策と追加関税の概要米国では2025年4月2日に大統領令が発せられ[2] 、同月5日から全ての国・地域の製品を対象に原則10%の相互関税(最低基準)が適用されている。それ以前から品目別に追加関税を実施する措置が発表されており、鉄鋼・アルミ等に25%(3/12以降)、自動車・自動車部品に25%(4/3以降)が賦課されていた 。また、特に貿易赤字が多い国・地域に関して、米国がその国から受けると主張する関税や非関税障壁を基準にした相互関税(上乗せ分)が設定された。算定根拠については議論があるものの、図表2に示す税率が、追加される。【図表2】 米国による相互関税の国別一覧表(抜粋)     欧州およびASEAN、インドなど新興国の税率順参照:White House.(2025年4月5日) Fact Sheet: President Donald J. Trump Declares National Emergency to Increase our Competitive Edge, Protect our Sovereignty, and Strengthen our National and Economic Security (https://www.whitehouse.gov/fact-sheets/2025/04/fact-sheet-president-donald-j-trump-declares-national-emergency-to-increase-our-competitive-edge-protect-our-sovereignty-and-strengthen-our-national-and-economic-security/) 相互関税は米国と当該国の間の基本的な関税率に追加される。ただし、米政府は4月9日、米国に対して報復措置を取っていない多くの国・地域を対象に、90日間、上乗せ分の適用を除外することを決めた。このため、日本を含め、多くの国の相互関税は当面10%にとどまっている。一方、米政府は4月10日までに、摩擦が激化した中国に対して、相互関税を当初発表の34%から125%まで引き上げた。これまでの対中関税と合わせ、中国製品に対する追加関税率は合計145%となった。(4月11日時点)。また、3月に追加関税措置を発動したメキシコとカナダについては相互関税の適用を免除した。相互関税がコンシューマー産業にもたらすリスク企業活動へのリスクを検討する上で、サプライチェーン(生産から調達、物流、販売に至る一連の流れ)の堅牢性、および輸出品目別にみた需給動向に対するかく乱要因を特定することが、不確実性の内容を具体的に把握する上でカギとなろう。そのため、図表3に示した形で、考察を進めていくこととしたい。政策が影響する経路と時間軸による整理【図表3】 関税政策がもたらす影響の経路と発現の時間軸    蓋然性を想定して①から⑤を付したデータソース:DTFAインスティテュート作成①    米国市場での製品・価格競争直接的に関税の影響を受けるのは日本から商品を調達し米国でビジネスを行っている企業と、米国に輸出している日本企業である。ここでは主に後者について述べたい[4] 。図表4で示すように、農林水産物・食品の輸出先としては米国の存在感が特に大きい。品目別にみると、ウィスキーや清涼飲料水、調味料などの加工食品は体力のある大企業が手掛ける例が多い。輸出以外でも、大半の上場コンシューマー企業のサプライチェーンは米国内で完結しており[5] 、トランプ関税への耐性はすでにある。ただ、畜産物や穀物、水産物、アルコール飲料の日本酒など、輸出額が多い商材の製造元は小規模な企業だと思われる。米国経済がリセッションに陥れば、企業には製品の価格転嫁力やコスト競争力が必須になるが、小企業はコスト増を吸収できる体力や対応力を備えていない可能性がある。このため、資金繰り悪化や需要減少を見越して、政策面で小企業の代替輸出を支援する必要がある。【図表4】 食品の輸出先上位10カ国と米国向け品目の上位10品目     米国は食品輸出先で1位参考:農林水産省「2024年の農林水産物・食品の輸出実績について」をもとに作成(https://www.maff.go.jp/j/press/yusyutu_kokusai/kikaku/250204.html)➁ 為替影響為替動向は、企業による調達と国内物価の動向を考える上で、重要なポイントである。米国は日本に対して、関税交渉と並行して円安是正を求めるとされるため、円高となる公算がある。図表5で見るように、現在の為替アナリストのコンセンサスは向こう1年間で1ドル=140円近傍となっている。ただ、金融市場では「マールアラーゴ合意(第2プラザ合意)」による抜本的なドルの切り下げが行われるとの観測もくすぶっている[6] 。この観測はあくまでもテールリスクと位置付けられよう。現在、米国の景気後退懸念を織り込んだシナリオとして、円高が最も進んだ場合、130円近傍が想定されている。1985年のプラザ合意で1ドル240円から同150円まで急激な調整が行われたことを念頭に置くと、このテールリスクが実現した場合、それをさらに上回る円高が進行するシナリオもあり得る。【図表5】 為替見通しのコンセンサスとレンジ     円高方向がコンセンサスデータソース:日本国内主要金融機関、シンクタンク8社(みずほ銀行、三菱UFJ銀行、三井住友銀行、ソニーフィナンシャル、野村證券、SMBC日興証券、みずほ証券、日本総研)による予想レンジおよび平均値を集計、プロットしたもの。3月末、および4月1日調査円高進行は両面的な影響をもたらすと想定される。ポジティブな要因としては、国内企業による調達価格の低減が挙げられよう。図表6に見るように、円安を受けて契約通貨ベースでの輸入物価は上昇している。また、為替動向が消費者物価指数(CPI)に反映されるまでのタイムラグは、概ね1~3カ月程度となっている。為替から単純にCPI水準を見出すことは困難だが、2023年末以降、両者の相関性は特に強まっており、店頭での商品価格下落は消費者マインドにプラスに働くと考えられる。小売事業者にとっても仕入れ原価上昇による収益環境の厳しさが、一定程度落ち着くと予想される。【図表6】 為替動向と輸入物価指数、消費者物価指数の推移     為替動向に対して、消費者物価は1~3カ月程度遅行的データソース:日本銀行、内閣府から作成ネガティブな面としてはインバウンド消費への影響がある。2024年の訪日外国人消費は前年比53.%増の8.1兆円であり、日本経済を下支えする要因と期待されている。ただし2019年対比で見た増加分の半分以上は円安効果によるものだったとの分析もある[7] 。こうした押し上げ効果は、円高によって剥落する可能性が高い。③    中国によるデフレの輸出安価な中国製品がもたらすデフレ輸出のリスク[8] は従前より懸念されていたが、トランプ関税によって、こうしたリスクが高まる可能性がある。報復措置をとった中国に対して米国は、他国に対するような90日間の関税猶予措置は行わなかった。そのため、中国から米国への商材が代替輸出地に振り向けられよう。とりわけ中国ではディスインフレ状態が続き、PPI(生産者物価指数)が2022年10月から25年3月まで[9] 前年同月比マイナスで推移。CPIも2025年2月が同0.7%低下、3月も0.1%の低下[10] となっている。図表7で示すように、消費財輸入額において米国は、中国から玩具・繊維・家電を多く購入している。その一部が回ってくれば、日本市場は中国のデフレ輸出による影響を被りかねない。【図表7】 各国の中国からの消費財輸入額(玩具・雑貨、繊維製品、家庭用電気機器)     米国は特に玩具・繊維・家電の輸入額が多いデータソース:独立行政法人経済産業研究所RIETI-TID(RIETI Trade Industry Database)による2022年のデータ(https://www.rieti.go.jp/jp/projects/rieti-tid/)(注1)欧州はドイツ、フランス、イタリア、英国の合計(注2)ASEAN6は、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、ベトナムの合計さらにトランプ関税により、こうした価格訴求商材の取引で越境ECが存在感を増す可能性が高まった。4月2日発表された今回の規制措置では、越境ECによる800ドル以下の少額貨物に対する非課税措置(デミニミス規制)が撤廃[11] された。個人輸入の形で米国に安価な商品を流入させてきた中国の越境EC事業者は、これで米国の代替市場を模索することになろう。しかし、東南アジア諸国の一部は自国の産業保護を目的として、巨大化した中資系越境EC事業者への規制を実施している[12] 。そのため、日本には越境ECを入り口として、ノーブランド品をはじめとした安価な商品が一層、流入するだろう。日本では既に、安価な生活家電や家具、ライフスタイルを訴求する業態が消費者の支持を得ている。ホームセンターも、工具や家具などの販売をプライベートブランド構築によって伸ばしている。こうした事業者にとっては、幅広い品ぞろえで価格訴求、品質訴求を行ってくる越境ECも新たな脅威となってくるのではないか。④    米国製品との競合発生中国によるデフレ輸出は、代替輸出できる国を模索することで起こるが、米国発でも同様の発生が想定される。【図表8】 米国から中国への輸出品目(2024年)参考:UN Comtrade Database. HSコード2桁の章別品目一覧、2024年の米国から中国への輸出データを検索条件として参照 (https://comtradeplus.un.org/)図表8に挙げた米国から中国への輸出品目のうち食品・消費財関連では、13位に挙がっている畜産物・肉に注目したい。とりわけ、牛肉については足元から変化が起きている。2025年3月16日、中国政府は米国の多くの肉加工施設の輸出登録を更新せず、輸出登録が失効した。結果として米国産牛肉の輸出が大幅に減少し中国市場へのアクセスが制限されることとなった[13] 。米農務省(USDA)のデータによると、2025年3月20日まで1週間の米国産牛肉の中国向け輸出はわずか54トンと前週の192トンから減少した。2月中旬まで週2,000トン以上だったことからすれば、激減といえよう[14] 。こうした動向を踏まえると、必ずしも日本には限らないが、米国産の畜産物、とりわけ牛肉が日本市場に向かえば、国内価格を押し下げる可能性がある。安価な製品が入ってくることは、食品スーパーにとっては幅広い選択肢を消費者に提供できる意味ではポジティブでありうる。消費者にとっても、物価上昇局面では安心感をもたらすであろう。しかし、サプライチェーンの川上にいる日本の生産者にとっては棚を奪われる要因であり、価格競争のリスクにもなる。⑤    サプライチェーンの組み換え/新興国へのコミット最後に、間接的かつ中長期目線では、サプライチェーンの組み換えが想定されよう。トランプ関税には各国別で大きな差が生まれている。この差は、それぞれの国と地域にとって、対米輸出のための生産立地としての相対的優位性をもたらす可能性がある。中国からの迂回輸出を防ぐ趣旨から、ベトナムにも46%の高い関税が課されているが、インドやフィリピンについては、それぞれ26%、17%と相対的に低めにとどまっている。図表9で見るように、現在はインド、フィリピン、ベトナムは製造立地としては単位当たりの製造コストで大きな差がみられない。しかし、関税を追加的なコストとして考慮すると、ホーチミン、ハノイといったベトナムでの製造コストが相対的に高くなり、インド、フィリピンの各都市は米国向けの輸出拠点としては、相対的にコスト優位性のある生産立地となりうる。個別の産業目線では、アパレルにおいてはバングラデシュの変化は業界のサプライチェーンに影響を及ぼしうる。バングラデシュのダッカは世界的なアパレル産地であるが、ベトナム同様、37%の高関税が適用された。このため、フィリピンのセブに近い水準となる。また、日本のSPA(製造小売り)企業がベトナムで生産し、米国に販売するケースも一部では存在する。今回の関税措置が長引く中で米国への販売構成比拡大を見込む場合は、製造拠点の再構築も選択肢になろう。しかし、工場の整備、技術移転、そして産業クラスターの形成までには相応の時間を要する。そのため、こうした生産地の移転を目指す動きが活発化した場合、企業にとっては長期にわたる新興国へのコミットメントと投資の意思決定を迫られることになるのではないか。【図表9】 関税コストを考慮した新興国の製造コスト比較(2025年3月調査)     関税影響で立地競争に変化が生じるデータソース:JETRO「2024年度 アジア大洋州・日本投資関連コスト比較調査(2025年3月)」(注)単位当たりコストは、各都市の労務費(一般職工、中堅技術者、課長クラスそれぞれの月給、賞与支給額、社会保険負担の雇用者負担分)、土地(工業団地借料1㎡あたり月額、事務所賃料1㎡当たり月額)、エネルギーコスト(業務用電気料金1kWhあたり、業務用水道料金1㎥当たり、業務用ガス料金単位当たり)それぞれドルベースで合算した。コストがレンジで示された場合は最も高い値を用いた。関税コストは、単位当たりコストに各国に対する関税率を乗じて算出した。コンシューマー関連に期待することこれまで見てきたように、サプライチェーンのゆがみによる大きな変化が予想される。トランプ関税は、SCMのどの要因に影響を与えるのかを見極める必要がある。関税をめぐる各国の交渉が始まろうとしているが、トランプ政権は関税交渉を通じ、貿易相手国に圧力をかけ、中国との貿易を制限することを検討していると、米メディアが報じている[15] 。仮に対中貿易制限が実施された場合、中国貿易に関わる企業は、サプライチェーンや投資の見直しを迫られる可能性がより一層高まる。コンシューマー企業にとっても、関税交渉での協議内容を注視することが不可欠となる。世界経済は半導体や重要鉱物をめぐって、価値観を共有する国と地域同士で貿易相手を選別する、閉じた形に向かおうとしている。しかし地政学上の戦略物資が関わらないコンシューマー関連産業では、まだ、経済合理性に基づいた、開かれた世界観が有効であることを願ってやまない。<参考資料>[1]  内閣官房. (2025年4月8日).米国の関税措置に関する総合対策本部 参照先:内閣官房(https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/tariff_measures/index.html)[2]  White House. (2025年4月2日).Regulating Imports with a Reciprocal Tariff to Rectify Trade Practices that Contribute to Large and Persistent Annual United States Goods Trade Deficits.参照先:White House (https://www.whitehouse.gov/presidential-actions/2025/04/regulating-imports-with-a-reciprocal-tariff-to-rectify-trade-practices-that-contribute-to-large-and-persistent-annual-united-states-goods-trade-deficits/)[3]  内閣官房. (2025年4月8日).資料2 経済産業大臣説明資料 米国の関税措置に対する国内対応について.参照先 米国の関税措置に関する総合対策本部: (https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/tariff_measures/dai1/siryou2.pdf)[4]  米国で小売業を展開している企業は限定的である。大手コンビニチェーンはすでに現地でのサプライチェーンが存在し、輸入による影響は軽微と想定している。また大手ディスカウントチェーンの米国売上高は10%で相応の規模であるが、それぞれ個社要因となるため本稿では割愛することとした。[5]  日本の上場食品メーカーのうち、米国の事業利益構成比が10%を超えるのは7社。うち、4社が北米に工場を有し、米国内で調達、販売していることから関税の影響は想定されない。[6]  江田覚.(2025年4月14日). 日米関税交渉の留意点――くすぶる「第2プラザ合意」観測. .参照先:DTFA Institute (https://faportal.deloitte.jp/institute/report/articles/001321.html)[7] 宮嶋貴之.(2025年1月17日). 2025年インバウンド展望:訪日中国人消費の本格回復は始まるのか?.参照先:ソニーフィナンシャルグループ グローバル経済・金利ウォッチ(https://www.sonyfg.co.jp/ja/market_report/pdf/g_250117_01.pdf)[8] 中川朗.(2025年1月28日). コンシューマー企業の価格転嫁を阻害する2つのリスク.参照先:DTFA Institute(https://faportal.deloitte.jp/institute/report/articles/001210.html)[9]  PPI in the Industrial Sector for March 2025.National Bureau of Statistics of China.参照先:(https://www.stats.gov.cn/english/PressRelease/202504/t20250414_1959291.html)[10]  Consumer Price Index for March 2025.National Bureau of Statistics of China.参照先(https://www.stats.gov.cn/english/PressRelease/202504/t20250414_1959290.html)[11]  中国からの輸入品に対するデミニミスルールの適用を終了。2025年5月2日午前0時1分(米東部時間)から正式に施行され、以降は中国からの800ドル以下の小口貨物にも関税が課される。[12]  インドネシアは地場企業保護のため、越境EC事業者の一部に参入を禁止。ベトナムでも一定期間内に商取引登録を行わなければサービスを禁止する可能性を示唆している。日本経済新聞.(2024年12月13日). TemuやSHEIN、東南アで規制相次ぐ 市場開拓に冷や水.日本経済新聞.ページ アジアBiz 参照先:日本経済新聞(https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM10ARD0Q4A211C2000000/)[13]  Farm Progress.(2025年3月14日). $3 billion in U.S. meat exports at risk as China delays plant approvals.参照先:Farm Progress (https://www.farmprogress.com/marketing/-3-billion-in-u-s-meat-exports-at-risk-as-china-delays-plant-approvals)[14]  US beef sales to China skid after Beijing lets export registrations lapse | Reuters (https://www.reuters.com/markets/commodities/us-beef-sales-china-skid-after-beijing-lets-export-registrations-lapse-2025-03-27/)[15]  Gavin Bade, Brian Schwartz.(2025年4月15日). U.S. Plans to Use Tariff Negotiations to Isolate China.参照先:The Wall Street Journal(https://www.wsj.com/livecoverage/stock-market-trump-tariffs-trade-war-04-16-25/card/XjryjnFJFkF8gwUd32Nj?msockid=3039e6370da8620930d6f31e0c5963cf)ウェブサイトの閲覧日はそれぞれ2025年4月17日

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ヒトメミライ 一目未来

ユヴァル・ノア・ハラリ氏の「NEXUS情報の人類史」を読みながら、最近のトランプ関税の動きを眺めている。超大国の民主主義国家であるアメリカが一人の大統領によって大きく動かされ、世界を巻き込み、混乱が生じつつあるのは改めてアメリカの影響力を感じるし、今後の不透明感がより高まっていると思うこの頃である。民主主義国家の代表であるアメリカがこれまでとは違う側に行くのか、非常に興味深い。▼アメリカは、若い国であり、今後、第二次世界大戦の時のような権威主義・全体主義にも行きかねない危なさはある。そういう危機の入り口にいるのかもしれない。また、AI革命が盛んに喧伝されるが、AIは情報の中央集権体制と相性がいいという側面を持つ。アメリカでも意見の多様性を排除するような言説が目立ち、そこにAIの進化が加わってくるとディストピアの世界感が出てきて、悲観的になるところもあるかもしれない。▼しかし、そういう悲観的な状況になればなるほど、楽観の力を信じたい。楽観的に、将来を良い方向に変えていこうとする実行力が求められている。テクノロジーの進歩は止められないが、それを破壊的な動きに繋げることは避けなければならない。▼テクノロジー業界に身を置くものとして、テクノロジーを良い方向に使っていこうという意志、議論を封じる方向ではなく議論を活発化する方向に使っていこうという意志が、今まさに求められているところである。(パートナー 熊谷圭介)
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