DTFA Times

フェムテック(Femtech)を活用した女性の健康課題の解決と働きやすい職場づくり

政府は、生理、更年期症状、婦人科がん、不妊治療など女性の健康課題による経済損失は年間3.4兆円と試算しています(*1)。日本は労働人口が減少し、男女格差の是正と女性のいっそうの活躍が必須となっており、企業には様々な人材が長く健康に働き続けられる環境の整備が求められています。テクノロジーで女性の健康課題を解決するフェムテックのスタートアップからは、企業経営にとって注目すべき様々な製品やサービスが創出されています。女性が長く健康に働き続けられる職場づくりが求められている2020年は日本の「フェムテック元年」となりました。デロイト トーマツ ベンチャーサポート株式会社(DTVS)インダストリー&ファンクション事業部 ヘルスケアユニット中井 美奈は、「新型コロナによる失業や健康・メンタル不調は女性へのインパクトが大きく、企業・雇用側もサスティナビリティの観点から、女性の健康を重要な経営課題として認識し始めました」と指摘します。同年は自民党内でもフェムテック振興議員連盟が発足しました。まだ一般的な認知度は不足していると言わざるを得ませんが、2022年に不妊治療の保険適用拡充、2023年に東京都が卵子凍結にかかる費用の助成を開始、2024年に子ども家庭庁がプレコンセプションケア(妊娠前の健康やライフプランの管理)に関する検討会立ち上げなど、市場は追い風となっています。中井は「人材確保、女性活躍、働き方改革など様々な点から、企業経営にとって女性の健康は重要なテーマです。デジタル世代が出産・育児世代になり、部長や役員などのリーダーが更年期世代となる中、福利厚生サービスの多様化と現代化が求められており、Femtechへの注目が高まっています」といいます。生理によるパフォーマンス低下、キャリアと出産・育児の両立、不妊治療や更年期障害などによる離職など、女性の悩みは多岐にわたります。生理休暇は法定休日ですが、それ以外の対応が未着手の企業が大多数ではないでしょうか。上述の経済損失に関する政府調査では、女性側は「職場の支援が不足している」と感じており、企業側は「何をすればいいかわからない」と考えていることが示されています。本稿では、DTVSのモーニングピッチ(*2)に登壇したスタートアップの中から、ヘルスケア技術で女性の健康と活躍を支援する注目企業3社をご紹介します(社名50音順)。各社の代表が言及しているように、まさに今、企業・行政含め社会全体での取り組みが求められているといえるでしょう。【インテグロ】月経カップのパイオニアとして女性の健康課題に取り組む 神林 美帆氏インテグロ株式会社代表取締役2005年から米国ドライマウス向け口腔ケア商品の日本市場立ち上げに従事。青山学院大学大学院国際マネジメント研究科にてMBA取得後、2016年に月経カップと吸水ショーツに出会い、「日本の女性たちにもこの製品を広めたい」との思いから、2018年に事業を立ち上げる。 現在では月経カップは通販やドラッグストアで手軽に購入できますが、神林美帆氏が米国メーカーの製品を輸入販売するビジネスを立ち上げた2018年頃は、日本での認知度はほとんどありませんでした。月経カップは、生理用ナプキンによる蒸れやかぶれなどの肌トラブルを回避できる、経血の漏れが起きにくい、運動時や温泉などでも使いやすい、繰り返し使えゴミが出ないためエコであるなどのメリットがあります。神林氏は「使ってみたところ、驚くほど快適でした。女性なら誰もが感じる煩わしさや悩みを解決できると考えました。起業を考える前に、大学院のソーシャルアントレプレナーの研究でインドのムルガナンダム氏(生理の問題に苦しむ女性のためナプキンを開発、『パッドマン』として映画化された)を取り上げたのですが、縁を感じます」と創業時の思いを振り返ります。「生理について話そう」をキャッチコピーとしたブログで、様々な立場や年齢の女性のライフスタイル、生理ケア、月経カップの体験談などについて情報発信を行いました。フェムテックに注目が集まった時期と重なり、メディアの取材が舞い込み、ブログの閲覧数も飛躍的に伸びました。神林氏は、「100回以上メディアに取り上げられました。生理が女性の生活や健康にとって大事な課題であると認識されるようになったことには貢献できたのではないかと思います」と、市場を開拓してきた経験を語ります。日本では、月経カップに対する抵抗感が強くメジャーな生理ケア用品にはなりにくいという課題はありますが、ユーザは徐々に増えてきています。インテグロは、女性が働きやすい環境作りを支援するための研修も行っており、2025年1月には千葉市消防局で生理研修を行いました。男女ともに参加し生理への理解を深めると同時に、女性職員が適切なタイミングで生理用品を交換するのが難しい消防や救急の現場でも不安なく月経カップを利用できそうだ、という前向きな意見を得られました。経血で健康を管理するアプリで新ビジネスを開拓同社のビジネスは、女性のヘルスケアに関心と熱意を持ったユーザーのコミュニティ形成につながり、経血で健康を管理するアプリ提供という新たな展開を迎えています。2023年に、香川大学医学部の鶴田准教授から、月経カップで正確な経血量を量る研究への協力依頼を受け、ユーザに呼び掛けたところ即座に必要な人数が集まりました。経血量を普通と自己申告したユーザのうち2割もの人が実際には治療が必要な病気が原因となっている可能性もある過多月経であるという研究結果が得られました。この研究を契機として、カップに溜まった経血量などを記録するアプリ「Oh My Flow」を開発し、2024年11月に正式リリースしました。アプリユーザからは、婦人科を受診した際、アプリのデータを見せると医師から診断に非常に役立つと言われたというフィードバックも得られたそうです。また、最近は世界的に経血の検査や研究が進み、資金も集まっています。血液検査や尿検査のように様々な疾患の発見につながることが期待されます。将来的に、経血を使った検査が一般的になる可能性もあると考え、インテグロは、大学や医師らとの連携による研究に着手しています。【Varinos】世界初、難易度の高い子宮内フローラ(菌環境)検査を実用化 桜庭 喜行氏Varinos(バリノス)株式会社代表取締役CEO埼玉大学で理学博士を取得後、理化学研究所、米国セントジュード小児病院等にてゲノム関連の基礎研究に従事。GeneTechで検査技術部長を勤め日本に初めて新型出生前診断(NIPT)を導入、イルミナで産婦人科分野の遺伝学的検査の市場開発に携わる。2017年に起業。 遺伝学・ゲノム解析の研究者である桜庭喜行氏が、2016年に子宮内の菌環境と妊娠・出産の関係に関する海外論文を読んだことが創業のきっかけでした。乳酸菌の一種である善玉菌のラクトバチルスの割合が高い人と低い人を比較すると妊娠率や出産率が異なるという基礎研究論文でした。ゲノム解析技術を応用し、世界でまだ実用化されていなかった子宮内フローラ検査を提供したいと考え、2017年にVarinos(バリノス)を設立しました。ゲノム検査を行えるラボを社内に設け、全国の医療機関から送付された検体を、次世代シーケンサー(遺伝子解析装置)などの専門装置を使って解析します。利用者が負担する費用は4~6万円、厚生省から先進医療に認定されており、保険診療の不妊治療との併用が可能です。B2Cで子宮内フローラを良くするためのサプリメントの販売も行っています。腸内フローラは認知度が高く「腸活」も人気ですが、桜庭氏は、腸と子宮では全く違ったと言います。「最初は私もコンセプトは同じなので実用化は簡単だろうと思っていましたが、腸内フローラの検査技術を応用するレベルでは歯が立ちませんでした。近年まで子宮は無菌とみなされていたほどで、菌の数がごく僅かなのです」と技術的な難易度の高さを示します。また、「検査機器などに設備投資が必要となるため、アーリーステージでの資金調達には苦労しました。時期的に不妊治療が保険適用される以前に、自由診療の枠組みの中でビジネスを確立できたのは幸いでした。スタートアップが新たに検査を開発しても、保険診療下では自由診療との混合診療が原則禁止されているため、ビジネスとして成り立たせるのは非常に難しいと言えます」と、日本は革新的なゲノム技術を事業化するハードルが高いという課題も指摘しました。バリノス内のラボ妊娠出産を望む女性に、情報と技術を届けたい不妊治療をしている患者の検査では、約5割の菌環境が良くないという結果が出ているそうです。子宮内フローラが不妊の一因である可能性があるなら、治療によって改善し、妊娠の確率を高めることができます。大勢の女性が心身の負担に悩みながら長期間不妊治療を受けている現状を改善するため、より多くの女性に検査を受けてもらいたいと考えています。創業以来累計5万件の検査を行ってきましたが、ラボは現在の10倍の検査量でも対応できるキャパシティを備えています。医療機関への働きかけを含め認知度向上を図るほか、補助が受けられる自治体の一覧を自社ホームページで公開するなどの取り組みを進めています。桜庭氏は、「不妊治療は社会課題となっています。女性自身にとっても、女性を雇用する企業側にとっても、妊孕性(妊娠する能力)は35歳以降、急激に低下するなどの基本的な知識の底上げや、プレコンセプションケアの推進、また働きながら不妊治療を受けやすくする制度の整備などが求められています。スタートアップ、大企業を含め民間からの草の根活動が必要と感じています」と語りました。 【BeLiebe】卵子の数を知る検査をきっかけに女性の人生計画を後押し 志賀 遥菜氏株式会社BeLiebe(ビーリーブ)代表取締役CEO東京大学大学院で医療生命科学の研究に従事。新卒で外資系消費財メーカーに入社。バイオとジェンダーに関する領域での研究の社会実装を実現すべく、2021年にパラレルキャリアとして起業。 BeLiebeの事業の目的は、卵巣に残っている卵子の数の推定するAMH(抗ミュラー管ホルモン)検査を活用した、女性のキャリアアップとライフプランの支援です。卵子の数は加齢とともに減少し、増えることはありません。個人差が大きく、AMH検査の結果から、子どもを持ちたいと思った時に卵子の数が少ないことが分かることもあります。志賀遥菜氏は、「卵子の数を知ることをきっかけとなり、その後の行動変容につながります。女性自身が、仕事と妊娠・出産のプランを現実的に考えることができるのです」と語ります。志賀氏は大学院で生物科学を専攻した研究者です。バイオとジェンダーに関する領域でテクノロジーの社会実装を行いたいと考えていた時にAMH検査に出会い、起業しました。医療機関では不妊治療で用いられる検査ですが、働く女性がヘルスケアの一環として手軽に行える血液検査キット「EggU(エッグ)」を提供します。看護師・助産師など有資格者によるカウンセリングとセットになっている点も特徴です。カウンセリングを通じて、未婚・既婚、子供の有無、仕事の状況など、ライフステージやキャリアプランを踏まえたアクションプランを作成することができます。志賀氏は大学院卒業後に外資企業に就職しました。AMH検査を受け、自身の検査結果から出産を先延ばしにはできない体だと分かり、現在は育児をしながらBeLiebeの事業を推進しています。「実は、本当に子供が欲しいのか海外勤務などキャリアを優先したいのか、自分の気持ちがよくわからなかったのです。検査によって自分事として考えることができました。働く女性たちに考えるきっかけを提供したい」と経験を語りました。男性従業員を含めた企業の健康経営を支援ビジネス拡大において重視しているのは、大手企業との提携による健康経営の支援です。これまで、トヨタ自動車、阪急阪神不動産、三井住友海上火災保険、マネーフォワードなど様々な企業がモニター検査プログラムに参加しました。企業の福利厚生サービスとして定価31,900円(税込)のキットを割引価格で販売するなど、従業員の利用を促します。女性従業員のキャリア形成支援として活用されるだけではなく、男性の関心も高くパートナーのために購入するケースも多いそうです。今後の展望としては、①AMH検査以外のヘルスケア技術の研究②女性のトータルライフキャリア支援の2点を挙げます。志賀氏は「出生数の低下、女性リーダーの育成がともに社会課題となっている中、創業からの理念は1つ、『女性が挑戦することを諦めない』です。生涯を通じた女性の健康課題の解決に貢献したいのです。手段はAMH検査以外にもいろいろあるでしょう。しかし、ライフステージに合った女性のヘルスケアに関する認知は圧倒的に不足しています」と言い、企業および行政を含めた社会全体での取り組みの重要性を強調しました。*1 経済産業省「女性特有の健康課題による経済損失の試算と健康経営の必要性について」(2024年2月)https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/healthcare/downloadfiles/jyosei_keizaisonshitsu.pdf*2 デロイト トーマツ ベンチャーサポート Morning Pitchhttps://morningpitch.com/

社会課題の解決に挑むスタートアップ
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地方創生への様々なアプローチ​

人口減少や高齢化に直面する中、各地で多様な地方創生の取り組みが進んでいます。地域資源を生かした産業振興や移住促進など自治体・企業・住民が一体となって挑む事例が増えています。本特集では先進的な事例や現場の声を紹介し持続可能な地域づくりのヒントを探ります。​

総合

第3回 サプライチェーンにおける人権リスクと対応

国連の「ビジネスと人権に関する指導原則」(以下、「国連指導原則」)(*1)や日本政府が策定した「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」(以下、「ガイドライン」)(*2)において、企業は「日本国内のみならず世界各地における自社・グループ会社と記載されています。自社の製品・サービスと直接関連する限り、サプライチェーンにおける「負の影響」(人権侵害・そのリスク)についても、「自社の責任」として対応が求められます。取引先等において人権侵害が発生したとしても、「当社と資本関係のない企業であり、当社とは関係がありません」と説明することは、国連指導原則等に則した対応とはなりません。本記事では、法規制などで定められる企業の人権リスクの責任範囲、サプライチェーン上の人権リスクとその影響、実際にサプライチェーン上で起きたグローバル企業における人権侵害の事例、サプライチェーンにおける人権リスクへの対応について解説します。*1ビジネスと人権に関する指導原則:国際連合「保護、尊重及び救済」枠組実施のために(A/HRC/17/31) | 国連広報センター *2責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン|ビジネスと人権に関する行動計画の実施に係る関係府省庁施策推進・連絡会清水 和之デロイト トーマツ ファイナンシャルアドバイザリー合同会社パートナー有限責任監査法人トーマツにて上場企業等の法定監査業務に従事した後、DTFAに参画。企業が危機に直面した際の危機管理・危機からの脱出を支援するクライシスマネジメントにおいて、企業の会計・品質偽装・贈収賄等コンプライアンス不正調査案件、企業不正からの改善・再生プロジェクト、クライシスマネジメント対応支援、サプライチェーンリスクマネジメント、人権DDなどに従事。詳細はこちら 大沢 未希デロイト トーマツ ファイナンシャルアドバイザリー合同会社シニアコンサルタント 大手総合電機メーカー、総合コンサルティングファームを経て、DTFAに入社。企業の危機管理および危機からの脱出を支援するクライシスマネジメントサービスにおいて、大手企業の危機対応、再発防止策策定・実行、M&A案件におけるビジネス・インテリジェンスサービス、人権課題対応支援などのプロジェクトに従事。 企業の人権リスクの責任範囲グローバルサプライチェーンの広がりに応じて、企業が国内外の自社ビジネスやサプライチェーン全体で人権尊重に取り組むことが求められています。サプライチェーンの末端における児童労働、安い労働力による搾取などといった人権侵害が明るみに出はじめ、企業として責任ある対応を求める声が世界中で高まりました。このような背景を経て、2011年の「国連指導原則」の採択をきっかけとし、各国において人権尊重の取り組みに関する法規制の施行やソフトロー化が急速に進められています。日本においてもこの潮流を受け、2020年には「ビジネスと人権」に関する行動計画(2020-2025)(以下、「行動計画」)が日本政府により策定され、さらにその取り組みの促進のための「ガイドライン」が2022年に策定されました。これらの法規制やガイドラインでは、企業は自社・グループ会社のみならず、サプライチェーン全体における人権リスクを適切に管理・監督する責任があると定めています。例えば「国連指導原則」では、「たとえその影響を助長していない場合であっても、取引関係によって企業の事業、製品またはサービスと直接的につながっている人権への負の影響を防止または軽減するように努める」と記載しており、自社が直接人権に悪影響を及ぼしていない場合であっても、取引先による人権侵害が起こっていれば、防止や軽減に努めることを求めています。2024年7月にEUで発令された「企業持続可能性デューデリジェンス指令(CSDDD)」では、一定の売上高等の要件を充足する企業(以下、「適用企業」)に、自社及び子会社の事業のみならず、「chain of activities」(*3)と定義された上流及び下流の事業活動全般に関する人権及び環境のデューデリジェンスの実施や開示等を義務付けています。2020年に日本で策定された「行動計画」においても、基本的な考え方として「サプライチェーンにおける人権尊重を促進する仕組みの整備」を実行計画に定めており、人権を尊重する企業の責任を促進するための政府の取り組みは国内外のサプライチェーン全体を対象としています。*3DIRECTIVE (EU) 2024/1760 OF THE EUROPEAN PARLIAMENT AND OF THE COUNCIL サプライチェーン上の人権リスクとその影響サプライチェーン上の人権リスクは多岐に渡ります。例えばメーカーでは、材料などの「調達」、「生産」、「販売」、「流通」等といった一連のプロセスによって事業活動が営まれますが、「調達」の段階では、鉱物資源の調達時における紛争地での人権侵害への加担といった人権リスク、「生産」では取引先の下請工場による児童労働や強制労働といった人権リスク等、全ての事業活動のステージにおいて、人が関与している限り、人権侵害が起こる可能性があります。そのため、一つのプロセスだけでなく、事業活動の全てのプロセスにおいて、サプライチェーン全体における人権リスクの可視化が求められます。図1 サプライチェーンにおけるコンプライアンスリスクこれらのサプライチェーン全体を含めた人権リスクの適切な管理・監督を怠ることで、中長期的には、レピュテーションの毀損、訴訟、ストライキといった多様な事象に対処する必要に迫られることになる可能性があります。人権リスクに適切に対応しない場合の経営リスクの例を挙げますと、例えば、サプライチェーン上の人権侵害が明るみに出ることで、不買運動などによる消費者購買の減少、取引先の調達基準を充足できないことによる取引停止、海外諸国において製品の輸入禁止措置を受ける等、売上や仕入への影響をきたす「オペレーションリスク」があります。また、昨今の欧州をはじめとする各国における法規制は、違反した場合多額の罰金を課す等の罰則が規定されている場合が多く、人権侵害を被った被害者などからの訴訟により、多額の賠償金の支払いが課される可能性があります。このような訴訟や訴訟対応コスト、法令違反による課徴金等による大幅なコスト増につながる可能性のある「法務・レピュテーションリスク」があります。さらに、法規制への違反の罰則として企業名を公表されるなどといった措置による企業イメージの悪化、それによる投資家からの評価減による株価の下落、などといった企業価値の毀損につながる「財務リスク」があります。こうした人権リスクを回避し、事業を安定的かつ継続的に維持するため、企業は人権を事業活動上の重要なリスク・ファクターとしてとらえ、その低減に努める必要があります。図2 人権対応への遅れがもたらす重要な経営リスク グローバル企業におけるサプライチェーン上の人権侵害の事例人権を経営リスクとして捉え、サプライチェーンまで含めた人権デューデリジェンスに取り組むグローバル企業は増加傾向にありますが、関係企業や取引先といった一次サプライヤーまでリスク管理対象範囲としている企業は多い一方、その先の二次サプライヤー以降までをも管理対象としている日本企業はまだそれほど多くありません。当社が2023年に実施した「人権サーベイ2023」(上場企業を中心に約100社に対し人権意識や各企業の取り組み状況を調査)では、「サプライチェーンにおいて、どこまでをリスク把握・管理の対象としていますか」といった質問に対して、約9割の企業が2次サプライヤーまで人権リスクを把握できていないと回答しました。図3 サプライチェーンにおけるリスク把握・管理の対象範囲出所:デロイト トーマツ ファイナンシャルアドバイザリー合同会社「人権サーベイ2023」ここで実際に、二次サプライヤー以降で発生した人権侵害への責任が、発注元の企業に問われた事例(*4)を紹介します。グローバルに事業を展開するD社、S社、T社、N社は、ライセンス使用権限をタイにあるライセンシー(元請け)に譲渡し、元請けは、下請けの縫製工場(A工場、B工場)に依頼し、キャラクターグッズ等の製造を依頼していました。2019年、複数の下請工場において、ミャンマーからの移民労働者に対し、最低賃金に満たない給与を支払っていたことが判明しました。図4 グローバル企業におけるサプライチェーン上の人権侵害の事例当局はA工場、B工場のオーナーに未払い分の給与を労働者に支払うよう命じ、A工場のオーナーは、約18百万タイバーツ(日本円換算で約79百万円)の補償金を支払いました(図4①)。一方で、B工場のオーナーは、家宅捜索後に事業を閉鎖したため、約3.5百万バーツ(日本円換算で約15.4百万円)分の未払い賃金が支払われない状態となりました。そこで労働者たちは、裁判所に訴訟を起こし、B工場のオーナーに未払い賃金の支払いを求めました。結果、労働者はB工場のオーナーから約1百万バーツ(日本円換算で約4.4百万円)の未払い賃金の支払いを受けることで和解に合意しました(図4②)。しかし、残りの2.5百万バーツ(日本円換算で約11百万円)については未払いのままとなりました。このような状況において、世論から発注元であるトップブランドの各社(D社、S社、T社、N社)においても、サプライチェーン上の労働者に対し未払い賃金の支払い責任を負うべきだといった批判の声があがりました。結果、残りの未払い賃金2.5百万バーツ(日本円換算で約11百万円)については、発注元各社が労働者に対し直接補償を行うこととなりました(図4③)。また、発注元各社は補償対応をより迅速に行うべきであったと、対応への遅れに批判の声が挙げられました。このように、直接契約等の効力が及ばない二次サプライヤー以降であっても、サプライチェーン上で発生した人権侵害への対応や賠償が要求されたり、自社製品やブラント、レピュテーションへ影響したりする、といったリスクがあります。グローバルにビジネスを展開する企業にとって、サプライチェーンの持続性を保つことは不可欠であり、リスクの低減を図るためには、高い管理水準をサプライチェーン上の企業にも適用することが肝要です。*4Thailand: Starbucks, Disney, Tesco & NBC commit to compensate illegally underpaid migrant garment workers in their supply chains - Business & Human Rights Resource Centre サプライチェーンにおける人権リスクへの対応企業はサプライチェーン全体を含めた人権尊重責任を果たすため、サプライチェーンの段階に合わせて人権リスクへの対応を実施していく必要があります。図5 サプライチェーンにおける人権リスクへの対応図5は、サプライチェーンの広がりに応じた人権リスクへの統制について示したものです。本社においては、自社内におけるガバナンスと統制を効かせることで、人権リスクを低減することが可能です。次に、日本や海外にある子会社に対しては、資本関係や株主権限によるガバナンスを利かせることができる範囲であり、人権リスクの発生を抑えていくことが可能です。次にサプライヤーの階層ですが、一次サプライヤーとは契約書を締結するので、契約書に人権条項を入れる形で影響力を高める法的アレンジメントが可能となります。ただし、人権条項の内容によっては努力義務に留まるなど、実効性の確保には相応の努力が必要となります。さらにその先の二次サプライヤーや三次サプライヤー等については、本社と直接的な契約がないため、本社による統制が効かない範囲となります。資本関係や契約書などの直接的な関係性がないため、人権リスク調査などの対応は依頼ベースとなり、「交渉」が必要となります。二次サプライヤー以降など自社グループから遠くなればなるほど、サプライチェーンの統制は難しくなります。そのため、まずは、二次サプライヤー以降も含めたサプライチェーン全体の可視化を行い、それぞれのサプライチェーンにおける潜在的な人権リスクを調査したうえで、自社の事業特性などを踏まえて人権リスクを評価します。二次サプライヤー以降に対するリスク調査は、上記の通り依頼ベースとなるため、円滑なコミュニケーションを図ることができる、一次サプライヤーの購買担当者を窓口にするなどといった工夫が必要となります。また、リスク評価の結果、二次サプライヤーにおいて高リスクの人権リスクが発見された場合は、オンサイトで人権デューデリジェンスを実施する等の対応を取ることが推奨されます。特に、それらの取引先が海外にある場合、対象となる従業員等は社会的に脆弱な立場にあるステークホルダーである可能性があり、より深刻な負の影響を受けやすいため、特別な注意を払う必要があります。オンサイトで人権デューデリジェンスを実施する際は、現地言語が通じる人員によるインタビューの実施、現地従業員がどのような人権侵害を受けたか判断するため、現地法律に対する理解が重要となります。これらに自社で対応することが難しい場合は、外部専門家の活用も選択肢となります。 おわりに欧米をはじめとする世界的な法規制や社会的要請が強まる中、サプライチェーンにおける人権侵害リスクを防止・軽減する取り組みは、企業の社会的責任を果たすために不可欠です。「人権」を重大な経営リスクと捉え、企業が人権を尊重した経営を実践することは、サプライチェーンに広がる多様な人権リスクを予防することにつながります。二次サプライヤー等自社グループから遠い場所から人権侵害が発生したとしても、人権侵害は自社製品/商品/サービスやブランドに直接的な影響があります。よって、自社のサプライチェーンを可視化し、自社の統制が直接効かない二次サプライヤー以降のサプライチェーンに対しても人権デューデリジェンスを実施していくことが求められます。「ビジネスと人権」シリーズ最終回は、人権を尊重する経営のためには、具体的にどのような取り組みを行うべきかを解説します。<<第2回 日本における「ビジネスと人権」の動向はこちらから第4回 人権を尊重する経営のための取り組みに続く>>関連書籍サプライチェーンにおける人権リスク対応の実務ー「ビジネスと人権」の視点で捉える、リスクの可視化とデュー・ディリジェンスの実践

ビジネスと人権
経済

第4回 人権を尊重する経営のための取り組み(後編)

国連の「ビジネスと人権に関する指導原則」(以下、「国連指導原則」) が示すとおり、事業活動を行う主体として、企業には、人権を尊重する責任があります。日本政府が2022年9月に策定した「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」(以下、「日本政府ガイドライン」 )によると、企業の人権尊重責任は、「企業が他者への人権侵害を回避し、企業が関与した人権への負の影響に対処すべきことを意味し、企業の規模、業種、活動状況、所有者、組織構成に関係なく、全ての企業にある」と示されています。本記事では、企業はその人権尊重責任を果たすために、具体的にどのような取り組みをすればよいのかを解説します。「日本政府ガイドライン」や、ガイドライン策定のベースとされている「国連指導原則」、OECD(経済協力開発機構)による「OECD多国籍企業行動指針」 やILO(国際労働機関)による「多国籍企業および社会政策に関する原則の三者宣言」(以下、「ILO多国籍企業宣言」) において、人権尊重の取り組みの柱とされている、「人権方針の策定」、「人権デューデリジェンスの実施」、「救済」に特に焦点を当てて説明していきます。清水 和之デロイト トーマツ ファイナンシャルアドバイザリー合同会社パートナー有限責任監査法人トーマツにて上場企業等の法定監査業務に従事した後、DTFAに参画。企業が危機に直面した際の危機管理・危機からの脱出を支援するクライシスマネジメントにおいて、企業の会計・品質偽装・贈収賄等コンプライアンス不正調査案件、企業不正からの改善・再生プロジェクト、クライシスマネジメント対応支援、サプライチェーンリスクマネジメント、人権DDなどに従事。詳細はこちら 大沢 未希デロイト トーマツ ファイナンシャルアドバイザリー合同会社シニアコンサルタント 大手総合電機メーカー、総合コンサルティングファームを経て、DTFAに入社。企業の危機管理および危機からの脱出を支援するクライシスマネジメントサービスにおいて、大手企業の危機対応、再発防止策策定・実行、M&A案件におけるビジネス・インテリジェンスサービス、人権課題対応支援などのプロジェクトに従事。 人権デューデリジェンス ステップ②「負の影響の防止・軽減」人権DDの第2ステップは、「負の影響の防止・軽減」です。企業は、第1ステップ「負の影響の特定・評価」で特定された人権リスクに対し、負の影響の防止・軽減案または是正措置の策定を行い、実行します。企業は、人権尊重責任を果たすため、企業活動による人権への負の影響を引き起こしたり助長したりすることを回避し、負の影響を防止・軽減することが求められます。また、企業がその影響を引き起こしまたは助長していなくても、取引関係によって企業の事業、製品またはサービスに直接関連する人権への負の影響については、防止・軽減に努めなくてはなりません。 人権デューデリジェンス ステップ③「取り組みの実効性評価・モニタリング」人権DDの第3ステップは、「取り組みの実効性の評価・モニタリング」です。企業は、自社が人権への負の影響の特定・評価や防止・軽減等に効果的に対応してきたかどうかを評価し、その結果に基づいて継続的な改善を進める必要があります。評価にあたっては、苦情処理メカニズムにより得られた情報を含む自社内の各種データのほか、負の影響を受けたまたはその可能性のあるステークホルダーを含む、企業内外のステークホルダーから情報を収集します。様々な情報を取り入れることで、より客観的かつ正確に実態を評価できるようになります。必要な情報を収集した後、取り組みの実効性を評価します。評価の際は、質的・量的な指標に基づいて評価を実施するのが有用です。最後に、実効性の評価手続を関連する社内プロセス(例えば内部監査等)に組み込み、人権尊重の取り組みを企業に定着させ、定時的なモニタリングと継続的な改善を進めます。人権デューデリジェンス ステップ④「情報開示およびステークホルダーエンゲージメント」人権DDの第4ステップは、「情報開示およびステークホルダーエンゲージメント」です。企業は、自身が人権を尊重する責任を果たしていることを説明する必要があります。特に、企業が人権侵害を主張された場合、中でも負の影響を受けるステークホルダーから懸念を表明された場合は特に、その企業が講じた措置を説明できることは不可欠です。人権尊重の取り組みの情報開示にあたっては、自社の人権尊重の取り組み状況をステークホルダーが理解しやすい形で定期的に情報開示することで、ステークホルダーからの信頼につながります。人権尊重の取り組みについて情報開示を行うことは、仮に人権侵害の存在が特定された場合であっても、企業価値が毀損するとは限らず、むしろ改善意欲の意思表示と捉えられ、透明性の高い企業としての企業価値向上に寄与する可能性があります。ちなみに、日本では、サステナビリティ開示基準の開発を目的とし設置された「サステナビリティ基準委員会」(以下、「SSBJ」)により、2025年3月に国内初となるサステナビリティ開示基準(以下、「SSBJ基準」)が公表されました。SSBJ基準では、適用対象企業を定めていませんが、金融商品取引法の枠組みにおいて適用されることとされており、金融商品取引法に基づく法定開示(有価証券報告書)におけるSSBJ基準の適用対象企業および適用時期等については、金融審議会に設置された「サステナビリティ情報の開示と保証のあり方に関するワーキング・グループ」による検討に基づくものとされており、動向を注視する必要があります。また、人権尊重の取り組みにおいては、社内の各部門の横断的な連携や、労働組合、人権の外部専門家、NGOや国際機関を含めた多くのステークホルダーのエンゲージメントが必要となります。ステークホルダーエンゲージメントとは、企業とステークホルダーとの間の意思の疎通および対話の持続的なプロセスであり、得られたフィードバックを人権DDに組み込んで、フィードバックコミュニケーションを構築することです。ステークホルダーエンゲージメントの実施は人権尊重の取り組みの実効性につながるためとても重要で、また人権DDにおける全てのステップで実施する必要があります。 救済前記「人権DD ステップ②「負の影響の防止・軽減」」の通り、企業は、自社が人権への負の影響を引き起こし、または助長していることが明らかになった場合、救済を実施し、または救済の実施に協力すべきとされています。一方、負の影響が自社の事業・製品・サービスと「直接関連」しているのみの場合においては、救済を実施することまでは求められておりませんが、負の影響を引き起こしまたは助長した他企業に働きかけ、その負の影響を防止・軽減する社会的責任を負うという点に留意が必要です。国連指導原則では、救済の目的は「人権によりもたらされた害を除去しまたは補償すること」とされております。適切な救済の種類または組み合わせは、負の影響の性質や影響が及んだ範囲により異なり、人権への負の影響を受けたステークホルダーの視点から適切な救済を検討・提供することが重要です。救済の仕組みには、大きく分けて国家によるものと、企業によるものとがあります。企業による救済については、苦情への対処が早期になされ、直接救済を可能とするために、企業とそのステークホルダーに関わる苦情や紛争に取り組む一連の仕組みである「苦情処理メカニズム」を確立することを通じて、人権尊重責任の重要な要素である「救済」を可能にすることが求められています。これは苦情処理・問題解決のための仕組みであり、企業はこのメカニズムを通じて把握した負の影響について追跡調査を行い、是正対応等を行っていくこととなり、人権DDと苦情処理メカニズムは相互補完の関係にあるといえます。苦情処理メカニズムを設置する際、国連指導原則は、その実効性を確保するために、図16の右側に掲載の8つの要件を充足するように整備することを求めています。これらの要件は、苦情処理メカニズムを実際使うなかでその実効性を確保する助けとなるために、設計、修正、または評価するための基準を提供するものです。8つ全ての要件を一気に充たすことは難しい企業も多数いることから、メカニズムを運用しながら徐々に進めていくといった対応も考えられます。おわりに人権を尊重する経営の取り組みは、企業活動全般において実施されるものであり、企業の人権尊重責任を十分に果たすためには、全社的な関与が不可欠です。したがって、企業トップを含む経営陣が、人権尊重の取り組みを実施していくという強い意志を社内外にコミットし、積極的・主体的に継続して取り組むことが極めて重要です。また、実際に人権を尊重する経営の取り組みを実践することは、専門的な知識や相応のリソースを必要とするため、必ずしも容易なことではありません。そのため、専門家のアドバイスを受けながら企業は適切なロードマップを策定し、長期的な視点を持ちながら継続的に取り組み、高度化を図っていくことが重要です。<<第4回 人権を尊重する経営のための取り組み(前編)はこちらから関連書籍サプライチェーンにおける人権リスク対応の実務ー「ビジネスと人権」の視点で捉える、リスクの可視化とデュー・ディリジェンスの実践

ビジネスと人権
社会

マラソンが切り拓く北海道 地方創生の新たな形

写真:北海道の別海町パイロットマラソンの完走賞で名産品の鮭1匹を受け取った、65BASE阿萬さん、杉本さんと、編集部川端人口減少や財政難が進む中、地方には「自ら稼ぐ力」が求められています。各地方の自治体、企業が策を講じていますが、地元にある産業だけではこれ以上大きく稼ぐことは難しいのが現状です。新たな収益源を探している中で注目されているのが、スポーツを活用した地方創生です。スポーツイベントは人の流れと熱量を地域にもたらし、観光や経済へ大きな波及効果があります。地元住民の参加や協力を通じて一体感も生まれ、地域ブランドの再構築にもつながるためスポーツは今、地方の未来を切り拓く戦略的なツールとして期待されています。その中でも特にマラソンは参加のハードルが低く、地域資源を活かしたコースづくりにより、地域の魅力を効果的に発信できます。今回は、北海道で65BASE代表を務め、北海道応援観光隊として市民ランナー向けのイベント企画やゲストランナーとして北海道を盛り上げる阿萬香織さんにお話を伺いました。(聞き手:編集部川端)阿萬 香織株式会社65BASE 代表取締役 北海道応援観光隊 札幌観光大使北海道応援観光隊、札幌観光大使、北海道マラソン2025応援サポーター。カゴメ株式会社の営業に従事する傍ら、2022年に株式会社ROKUGOUBASEを設立。道内外のマラソン大会のゲストランナーや道内のイベントを企画して、市民ランナーに走るきっかけと魅力を与えている。 杉本 晴美株式会社65BASE スタッフ65BASE コアスタッフとして運営をサポートする傍ら、自身も市民ランナーの一人として千歳JALマラソン、洞爺湖マラソン、別海町パイロットマラソンを始め道内外多数のマラソンに出走。道内各地のイベントにも足を運ぶ。 スポーツを通じた地方創生の可能性写真:北海道マラソン出走前の65BASEメンバーと市民ランナーさん――阿萬さんは北海道応援観光隊、札幌観光大使として北海道の魅力を伝える役割を担っていますが通常の観光・旅行ではなくスポーツという切り口で活動されていますね。阿萬さん北海道には、各地に魅力的な農産物や観光スポットが数多くあります。スポーツイベントは、そうした地域の魅力を知っていただくきっかけになっていると感じます。例えば「富良野山部ウォーク・ラン&イート」では、緑あふれる自然の中を歩いたり走ったりした後に、地元の名産であるトマト、アスパラ、メロンなどを楽しんでいただける企画が用意されています。ランニングイベントは、運動を通じた健康づくりの場であると同時に、地域の魅力を伝える機会にもなっています。また、都市部からの参加者を迎えるだけでなく、地域の方々同士がつながる場にもなっており、地域内のコミュニケーションが生まれている印象です。外から人を呼び込むだけでなく、地域の内側で生まれるつながりを大切にしていく。そうした積み重ねが、結果として地域の活力につながっていくのではないかと感じています。杉本さん65BASEのスタッフとしてランナーの皆さんをサポートしたり、自らランナーとして参加したりしながら、日々活動に関わっています。スタッフという立場でも、道内各地のイベントを地域の方々と一緒につくり上げていくことに、大きなやりがいと喜びを感じています。写真:夕張バリバリメロンラン 2025 公式Webサイト(https://baribarimelonrun.studio.site/)――ランニングイベントでは夕張市でのマラソン大会が話題になりました。財政破綻からの再建が苦戦する中で、あらたな地方創生策として注目されています。阿萬さん夕張市は、誰もが知るメロンの名産地でありながら、人口減少の影響を受け、財政面では厳しい状況が続いています。そうしたなか、地域の魅力を発信しようと、2022年から「夕張バリバリメロンラン」が開催されています。完走後には、名産の夕張メロン半玉を味わえるユニークな仕掛けもあり、夕張らしさが随所に感じられるイベントです。初心者や親子でも気軽に参加できるような工夫が施されており、昨年はリピーターに加えて新たな参加者も増加。今年はさらに多くの盛り上がりが期待されています!スポーツイベントを“地域資産”に変えるには――イベントを活用した地方創生を考えると単発ではなく継続的に開催していく体制が必要になります。スポーツイベントを定着させるには、どのような点が重要でしょうか。阿萬さんイベントを単発で終わらせず、“年中行事”として地域に根付かせていくためには、地域の方々の理解と協力が欠かせません。ランニングイベントは、行政だけでなく、地元の市民ランナーがペースメーカーとして参加したり、地域の方々が給水所でボランティアを務めたりと、まさに地域一体となってつくり上げられています。中には、「地域やイベントを盛り上げたい」という想いで、熱心に関わってくださる方もいらっしゃいます。地域の皆さんが「これは自分たちのイベントだ」と感じられるようになれば、自然と年中行事として定着し、参加者の満足度も高まっていくのではないでしょうか。とはいえ、実際には赤字で運営されているイベントもあり、継続には様々な課題も残されています。地域に根差した持続可能な取り組みとして育てていくためには、工夫と同時に、覚悟も必要だと感じています。――豊富な自然・文化・人材とスポーツイベントを組み合わせることで、その「地域資産」をより有効に活動できるということですね。阿萬さん65BASEを立ち上げた当初は、活動の中心は札幌周辺のイベントでしたが、現在では道内各地へと足を運ぶようになりました。今年は、稚内、北見、釧路、富良野等で、地元の方々と一緒にイベント内容を考え、実施します。また、夕張バリバリメロンランのほかにも、最東端・根室で開催される「根室シーサイドマラソン」、「カムイの杜トレイルラン」、「白旗山トレイルレース」、「スィートガールラン」、「釧路空港マラソン」など、応援サポーターという形で盛り上げさせていただきます。私たち65BASEは、スポーツを通じて人と人とがつながるプラットフォームとなることを目指し、これからも活動を続けていきます。地方が抱える課題の中にはスポーツによって解決できる課題、果たせる役割があります。特にマラソンは、ただのスポーツを越えて人や地域の想いをつなぐ「場」になる特徴を持っています。走ることで地域と未来をともにつくっていく、そんな動きが、北海道から静かに、しかし確かに広がっています。北海道の主なマラソン大会一覧

イノベーション

製薬業界における開発パイプラインの取引に関するアーンアウト構造の評価(後編)

前編では、日本及びグローバルにおけるライセンス案件の取引傾向について、過去のデータを参考に考察を進めていきました。後編ではライセンス取引の設計について、詳細に説明します。製薬業界におけるライセンス取引の背景製薬業界においてライセンス取引とは、第三者が新薬やモダリティに関連する将来の経済的利益の一部を、即時または条件付きの支払いと引き換えに取得するプロセスを指します。この取引では、買手(ライセンシー)が売手(ライセンサー)から医薬品に関する法的および経済的権利を取得し、対価を支払います。それに対し、売手は医薬品の特定の権利を譲渡するとともに、一定の責任を保持します。ライセンス取引は、開発の早い段階で行われることが多く、後の開発コストを抑えるとともに、大手製薬企業がスタートアップの専門知識を活用する手段として利用されます。これにより、買収や統合のコストやリスクを軽減する効果があります。ライセンス取引には様々な形態が存在し、具体例は以下の通りです。アセット購入対象資産に関する法的な支配権を取得する。これには、開発、製造、販売の権利が含まれる。基本的ライセンス買手(ライセンシー)が開発や商業化に関する全ての管理および支払いを引き受ける。共同販売両当事者が同一の地域内で同一または異なるブランド名で製品を販売し、収益を計上する。共同販促両当事者が製品の販売促進責任を分担する。ライセンス・エクイティ買手がライセンス契約を実行する際、売手に少額の投資を行う。オプション付きライセンス契約買手が将来のライセンス契約を実行する権利を取得するために、現在において一定額の支払いを行う。サプライ契約付きライセンスライセンサー(売手)がライセンス契約に基づき継続的に製品をライセンシー(買手)に供給する。製薬業界でのライセンス取引は、以下のような状況を背景に行われることが多いです。近年の研究によると、新薬の研究開発(R&D)には約900百万USDのコストがかかる可能性があり、これは多くの企業にとって資金調達能力を超える金額となる場合があります。Paulらの研究(2010年)(*1)では、前臨床試験の段階だけでも約19百万USDのコストがかかるとされており、フェーズ1では約15百万USD、フェーズ2では約40百万USD、フェーズ3では約150百万USDに達すると見積もられています。フェーズが進むにつれて臨床試験はより複雑化し、それに伴いコストも大幅に増加する傾向があります。このような高額な開発費用が、新薬開発のハードルをさらに高くしているのが現状です。他の産業と同様、製薬業界でもベンチャー企業がイノベーションを担うトレンドにシフトしています。安定した資金基盤を持つ大手製薬企業とは異なり、ベンチャー企業は、既に市場で販売されている製品のポートフォリオを持たないため、開発を進めながら資金を効率的に管理する必要性が高まっています。この状況が、ライセンス取引の需要をさらに押し上げています。新薬がアイデア段階から市場投入されるまでの成功確率は、研究によれば5,000分の1と推定されています。このような高リスク・高コストの状況下では、資金調達やリスク分散のためにライセンス取引が行われるのは当然とも言えます。*1 Paul, S.M. et al. (2010) How to improve R&D productivity: The pharmaceutical industry's grand challenge. Nature Reviews Drug Discovery. 9(3), 203-214一時金一時金は、新薬やモダリティの開発においてこれまでに発生した開発費用に関連していると見なされることが多いです。理論上においては、一時金がこれまでにかかったサンクコストと明確に対応している必要はありませんが、実務においては、一時金が主開発者の資金問題を緩和し、次の開発フェーズへの活動継続を可能にする役割を果たすことがあります。別の見方をすると、一時金は開発者がその時点までに投じてきた研究開発コストの回収であると考えることができます。そのため、商業化から遠い段階では、技術の現時点での価値が限られていることを反映して、一時金は少額になる傾向があります。マイルストーン支払い一時金やロイヤリティフィーに加え、特定のトリガーイベントの達成を条件とした支払いが存在します。これがマイルストーン支払いと呼ばれるものです。この支払いは、研究開発(R&D)マイルストーン、規制当局承認マイルストーン、販売マイルストーンのいずれか、またはその全てを組み合わせた形で行われます。概念的には、マイルストーン支払いはM&A取引におけるアーンアウト支払いに似ており、売手(ライセンサー)と買手(ライセンシー)の間の評価ギャップを埋める役割を果たします。ただし、M&A取引と比較すると、マイルストーン支払いはライセンス取引において取引全体の価値の中でより大きな割合を占める点が異なります。その背景として、ライセンス取引では対象資産がまだその潜在的価値を実現していないのに対し、M&A取引では対象企業が実績のある事業基盤を有していることが挙げられます。マイルストーン支払いは一括で支払われることが一般的ですが、売手(ライセンサー)のリスクを軽減するために、各マイルストーンをさらに細分化し、分割支払いを導入するという選択肢も存在します。ただし、その実施は難しい課題を伴います。多くの場合、売手(ライセンサー)は資金繰りに苦慮するバイオテクノロジー企業であり、交渉は通常、大手製薬企業(買手/ライセンシー)主導で進められます。ただし、売手が特に注目される新規モダリティを含む優れたパイプラインを保有している場合や、複数買手候補(ライセンシー)によるビッドなどの競争的なプロセスを通じて最良の買手/条件を選択する場合には、売手側が交渉の主導権を握ることも可能です。ロイヤリティフィーライセンス契約では、一時金やマイルストーン支払いに加えて、売上収益に基づくロイヤリティフィーが含まれることがよくあります。この支払い方法は、取引の経済的背景、特に取引対象のバリュエーションに関する不確実性を考慮したものだと考えられます。医薬品においては、相当額の開発コストが初期段階に発生する一方で、キャッシュ・インフローは長期的に回収されます。このため、割引率の影響が大きくなり、結果として初期のインプットのわずかな違いが増幅されてバリュエーション結果に重大な影響を与えます。バリュエーション結果の不確実性とアップサイドおよびダウンサイドリスクを考慮すると、新薬のライセンス後および商業化後の利益を共有する手段として、純売上収益に基づくロイヤリティフィーが合意される形態が一般的です。ロイヤリティフィーは新薬のライセンス供与と商業化後にのみ行われることから、売手(ライセンサー)目線では当該新薬全体の事業計画と同等の商業的リスクにさらされます。また、割引率の影響を受けるため、開発の現段階が早ければ早いほど、その影響は増幅されます。実務上、固定的な一時金と長期的な条件付きロイヤリティフィーの割合について、取引当事者間で交渉が行われることが一般的です。開発者の視点では、ロイヤリティフィーの特性を踏まえ、一時金やマイルストーン支払いを重視した支払い構造を好む傾向があります。一方で、買手の視点では、一時金を重視することで開発者が商業化までの開発努力を続けるインセンティブを失ってしまうリスクがあると見なされる場合があります。時間価値の影響 新薬や技術の評価額について基本合意が得られた後、次のステップとして、一時金や固定支払い、将来の条件付き支払いの配分を検討することになります。これらの条件付き支払いは通常、後の段階で発生するため、貨幣の時間価値(現在価値)、つまり割引計算の影響を受けます。例えば、評価額が100とされ、その支払いを50ずつの2回に分けるとします。2回目の支払いが2年後に発生する場合、10%の割引率を適用し(期末時点での割引と仮定)、2回目の50の支払いは現在価値で41(50 x 0.826の現在価値係数)となります。このように、後の段階で発生する支払いは現在価値に換算されるため、実際の価値が目減りすることになります。割引の取り扱いは、マイルストーン支払いが発生する場合の会計処理にも関係します。国際財務報告基準(IFRS)の下では、通常、このような支払いの公正価値がバランスシートに計上されます。しかし、商業的な観点から見ると、貨幣の時間価値を考慮することはマイルストーン支払いのデメリットと見なされる場合があります。このため、売手は対価のより多くの割合を一時金として受け取ることを好む傾向があります。オプション性の考慮将来の条件付き支払いにおいては、貨幣の時間価値の影響に加え、その中に含まれるオプション性の性質も重要な要素として考慮する必要があります。マイルストーン支払いの場合、新薬の商業化に向けた開発ハードルを達成することが条件となります。このような支払いでは、売手(ライセンサー)は開発目標が達成されないというリスク(ダウンサイドリスク)を一方的に負いますが、目標達成による利益(アップサイドリスク)を享受することはできません。一方、売上ロイヤリティフィーの場合、支払いは新薬の販売後の売上実績に基づいてスライドスケール(段階的な割合)で設定されることが一般的です。この場合、売手は商業化後の売上が成功した場合に利益を享受できるため、アップサイドリスクの恩恵を受ける可能性があります。このように、マイルストーン支払いとロイヤリティフィーは、それぞれ異なるリスクとリターンの特性を持つため、多くのライセンス取引においてこれらを組み合わせることが一般的です。この組み合わせにより、売手と買手の双方にとって、リスク調整後の適切なリターンを確保することが可能となります。投資家のニーズのバランスマイルストーン支払いと条件付き支払い(マイルストーンまたは売上ロイヤリティフィーのいずれか)を組み合わせる際には、売手(ライセンサー)と買手(ライセンシー)のインセンティブや立場のバランスを取る必要があります。ライセンサーが限られた製品パイプラインしか持たず、商業化された製品がなくキャッシュフローが安定していない開発段階の会社である場合、資金不足に陥っている可能性があります。このような場合、ライセンサーの視点からは、早期のマイルストーン支払いを高額に設定することが好まれることがあります。一方、ライセンシーの視点では、早期の高額なマイルストーン支払いは条件付きの要素が少ないため、臨床開発や試験を継続する十分なインセンティブを提供できない可能性があります。一部の投資家はライセンサーに対してのリスク許容度に応じ、開発初期段階の技術への投資を好む場合もあります。これは、新薬が開発され、後に他の業界プレイヤー(例えば大手製薬会社)に再ライセンスまたは売却されることで、将来的に大きな利益を得ることを期待してのことです。前臨床段階の投資においては、特にアメリカではベンチャーキャピタル投資が資金の重要な供給源となりつつあります。この分野では、専門知識を持ち、リスク許容度の高い企業が投資を行うことが多いです。ベンチャーキャピタル投資家はリスクを限定するため、R&Dの段階(例:新薬開発のタイムラインに沿った異なる段階)やモダリティ、治療分野、潜在的リターン、成功確率の評価などを通じて投資を分散させる傾向があります。これにより、投資リスクを最小限に抑えつつ、将来的な利益を追求しています。投資家の必要な期待収益率投資家と被投資者の視点、高い失敗リスク、商業化までの長い期間といった要因を統合的に考える方法の一つとして、初期段階の投資における内部収益率(IRR:Internal Rate of Return)を検討することが挙げられます。売手(ライセンサー)は、初期の臨床研究や開発に対する対価として、一時金または後に支払われる条件付き対価を受け取ることがあります。しかし、一時金とマイルストーン支払いの割合によっては、支払い時期が遅くなるほど割引の影響を受け、IRRが低下する可能性があります。これらの収益を、技術開発の進展に伴う失敗リスクがあらかじめ織り込まれているベンチャーキャピタル投資の期待収益率と比較することで、評価額の妥当性をクロスチェックすることができます。また、IRRの代わりに投資収益率(ROI:Return on Investment)を用いるという選択肢もあります。例えば、研究開発に投入された資金の何倍を回収できるかどうかを確認することで、提案されたライセンス契約によるリターンが十分なものかどうかを評価することができます。以下に、ベンチャーキャピタル投資が通常期待する収益率の一部を示します。収益をまだ生み出していない段階(収益前段階)の投資では、失敗リスクが高いことを補うために、必要な収益率が相対的に高くなる傾向があります。必要な期待収益率は、事業の性質(特に開発段階や、事業計画に明示的に反映されていない技術的リスクや商業化リスク)に依存しますが、ご覧の通り、必要な収益率には大きなばらつきがあります。特に、初期段階の投資においては、期待される収益率が著しく高くなる傾向があります。初期段階の投資では、事業計画の前提条件が後期段階の投資ほど実態の伴ったものでではない場合が多いため、他の条件が同じであれば、期待される収益率が上昇する傾向があります。ライフサイエンス分野に適用する際には慎重さが求められますが、この視点は、例えばマイルストーン支払いについて交渉を行う際に、当事者間の参考になる可能性があります。結論一時金と後払いの条件付き支払いの適切なバランス調整は、個々の取引の事実や状況に基づいた交渉により決まる問題です。今回は、このような契約を交渉する際の「技術的な背景」に関するいくつかのポイントを取り上げました。本稿が、今後の参考として役立つことを願っています。<<製薬業界における開発パイプラインの取引に関するアーンアウト構造の評価(前編)はこちらから

研究員の視点

年金考②改革法案のポイント、基礎年金の給付水準底上げ

政府が2025年5月に国会提出した年金制度改革法案について、当初盛り込まれなかった基礎年金(国民年金)の給付水準底上げを明記することで与野党が合意した。シリーズ2回目になる本稿では、この底上げ措置について論じたい。年金改革法案は本会議や委員会での質疑に首相が出席する「重要広範議案」であり、社会的な関心も高い。法案提出前の段階で改革案の一部を見直したため、政府提出法案の締め切りの目安から大幅に遅れての提出となった。政府が提出した法案に当初、盛り込まれた主な公的年金に関する制度変更は下記の4点だ(図表1)。本稿ではそれぞれの詳細は割愛する。(図表1)政府が当初提出した年金法案に盛り込まれた公的年金に関する主な制度変更提出後の与野党協議の結果、厚生年金の積立金を活用して基礎年金(国民年金)の給付水準を底上げする措置を法案に明記することが決まった。もともと政府が盛り込む方針だったが、「会社員らの加入する厚生年金から自営業者らの加入する国民年金への流用ではないか」との批判がSNSなどであった。この措置の恩恵は会社員にも及ぶため、「流用」批判は必ずしも正しくない。ただ、理解が難しいのも事実で可能な限り正確に解説していきたい。基礎年金の所得代替率低下に歯止めまず、本シリーズ初回(リンク)でまとめた公的年金の仕組みをおさらいしよう。公的年金は現役世代が負担する保険料と国庫負担(税金)を年金にあてる仕送り方式だ。少子高齢化が進むめば、保険料を納める人が減って受給者が増える。給付水準を賃金・物価の伸びよりも抑制して世代間のバランスを取る機能を果たすのが「マクロ経済スライド」だ。今回の基礎年金の給付水準底上げ策の主役である。マクロ経済スライドはおおむね100年間で年金財政のバランスが取れると判断できる時点まで行う。発動する期間が長いほど、給付水準は低下する。マクロ経済スライドは厚生年金の2階である報酬比例部分と1階部分の基礎年金部分のそれぞれにかかり、調整の終わる時期が異なる。厚生労働省が実施した2024年の財政検証によれば、過去30年と同じ低成長が続くとする「過去30年投影ケース」で、報酬比例部分の調整は2026年度に終わる。一方、基礎年金は2057年度までかかる。このズレを一致しようとするのが今回の修正案だ。公的年金の給付水準をはかる物差しとしては、65歳から受け取り始めたときの年金額と現役世代の男性の平均手取り収入を比較した「所得代替率」を用いる。この比較で使う年金額は、平均的な収入で40年間就業した夫と専業主婦の妻が受け取る厚生年金と基礎年金の合計額だ。2024年度は61.2%で、内訳は基礎年金部分が36.2%、報酬比例部分が25.0%だ。基礎年金部分は調整が2057年度までかかれば、2024年度に比べ10.7ポイント下がる(図表2)。(図表2)厚生年金の所得代替率の見通しこのように基礎年金の所得代替率が下がり過ぎないよう、厚生年金にある積立金と国庫負担を使う。調整期間は現行制度を続ける場合と比べ21年短くなり、基礎年金の所得代替率は3ポイントの低下にとどめることができる。一方、報酬比例部分の調整は10年延びるため、所得代替率は2.1ポイント低下する(図表3)。この案は前述の通り「厚生年金の流用」といった批判に加え、現行制度を続ける場合に比べて、年金額が目減りする世代が出る可能性が懸念されている。(図表3)基礎年金にかかるマクロ経済スライドの調整期間を短縮する効果「厚生年金の流用」という批判は多分に誤解がある。厚生年金はすでに述べたように、基礎年金と報酬比例部分が合わさったものだ。自営業者らが加入するのが国民年金、会社員らが加入するのが厚生年金といった説明がなされることがあるが、会社員らは老後になれば両方を受給する。このため、基礎年金の給付水準の底上げは、国民年金のみに加入する人だけでなく、厚生年金に加入する会社員らにも恩恵が及ぶ。だが、この措置によって、年金額が減る世代が出てくる可能性があるのは事実だ。厚生労働省が2024年12月の社会保障審議会年金部会で示した年金額改定への影響シミュレーションによると、過去30年投影ケースでは、今の制度に対して最も差が大きくなる2035年度で、月額の年金額は約7000円抑制される(※1)。現役時代に所得が多かった人の方がその影響は大きい。なお、「年金額が減る人が出てくる可能性がある」と回りくどい表現をしているのは、確定しているわけではないからだ。よく使われるこのシミュレーションは過去30年の低成長を投影したものであり、成長型経済に移行するケースでは、年金額は増える。経済成長こそ最大の年金対策なのだ。法案の修正案では、2029年に予定する次期財政検証の結果、基礎年金の給付水準低下が引き続き見込まれる場合に、底上げを実施する規定を付則に盛り込んだ。また、一時的に給付水準が低下する影響を緩和する措置を実施することも入っている。2029年までに日本経済を成長軌道に乗せることができるか否かによって、年金改革の行方は変わるだろう。それ以外に、この底上げ措置を講じれば国庫負担が増えるとの指摘がある。「最大で年2.6兆円の追加国庫負担が発生する」と表現されることがあるため、現状から2.6兆円増えるイメージを持つ人が多いだろう。だが、実際は異なる。最大2.6兆円の財源が必要とされる2070年度の国庫負担予測は、11.9兆円で、2024年度の13.5兆円からむしろ減る(※2)。2.6兆円とは、現行制度を続けた場合との差額だ。全く新しい財政需要が出てくるわけではないと言えるだろう。もちろん、社会保障費全体が膨らんでおり、財源論が重要なのは言うまでもない。ただ、個々の政策においては前提になるデータを正確にとらえた議論が必要だ。基礎年金の給付水準底上げには複数の手段ここからは基礎年金の給付水準の引き上げという目的に対し、他の手段はないのかという観点で考えてみたい。主に二つの手段があり、一つは法案にも含まれている厚生年金の適用拡大だ。これは基礎年金のマクロ経済スライド調整期間の早期終了をもたらすことができる。①厚生年金の適用拡大公的年金制度では、基礎年金(国民年金)のみだった人に厚生年金を適用すると、その人は「第1号被保険者」から「第2号被保険者」へと移行する。移行するのは人だけで、基礎年金の積立金は移動しない。結果として残った人の1人当たりの積立金の額が増えるという財政改善効果をもたらす。より多くの人に厚生年金に適用していくと、基礎年金の調整期間は短くなっていく。どれくらい効果があるのか厚労省の財政検証オプション試算で確認できる。厚生年金を週10時間以上のすべての雇用者に適用(注)した場合、約860万人が新たに加わる。過去30年投影ケースで、基礎年金のマクロ経済スライドによる調整期間は現行制度より19年短くなり、比例報酬部分と調整期間の終了時期が一致する。基礎年金部分の所得代替率は3ポイントの低下にとどまる(図表4)。適用拡大は労使の保険料負担の問題があり、漸進的にしか進んでこなかった。約860万人という適用拡大が一気に進む実現性は極めて乏しいが、厚生年金の積立金を基礎年金に投入するのと同じ効果があることが分かるだろう。(図表4)厚生年金の適用拡大(860万人)による効果②基礎年金の拠出期間を延長もう一つの手段は基礎年金の保険料を支払う期間を現行の40年(20~59歳)から45年(20~64歳)に延長することだ。この結果、過去30年投影ケースの基礎年金の所得代替率は6.7ポイント低下し、比例報酬部分が2.9ポイント上昇する(図表5)。(図表5)基礎年金の保険料支払い期間を45年に延長する効果総務省の2024年の労働力調査によると、60~64歳の就業率は74.3%と過去最高だ。拠出期間を40年とする基礎年金が誕生した1985年は51.1%だったことを考えると、高齢者の就業状況は大きく変わった。保険料負担の増加という課題はあるものの、拠出期間の延長は自然な流れと言えるだろう。このように基礎年金(国民年金)の給付水準底上げを実現するには複数の選択肢がある。ただ、いずれも何らかの負担が発生する。給付と負担が結びつく社会保険方式の制度である以上は当然だろう。今回の法案にとどまらず、年金改革は長期的な政策課題だ。誰が、どのように、どの水準なら負担でき、どの水準の給付なら老後の支えとして十分なのか、データに基づいた冷静な議論と検討が必要だ。【参考資料】(※1)厚生労働省 第23回社会保障審議会年金部会「資料2基礎年金のマクロ経済スライドによる給付調整の早期終了(マクロ経済スライドの調整期間の一致)について②」7ページ(https://www.mhlw.go.jp/content/12401000/001359255.pdf)(※2)厚生労働省 第23回社会保障審議会年金部会「資料2基礎年金のマクロ経済スライドによる給付調整の早期終了(マクロ経済スライドの調整期間の一致)について②」26ページ(https://www.mhlw.go.jp/content/12401000/001359255.pdf)ウェブサイトの最終閲覧日はすべて2025年5月29日

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ヒトメミライ 一目未来

ユヴァル・ノア・ハラリ氏の「NEXUS情報の人類史」を読みながら、最近のトランプ関税の動きを眺めている。超大国の民主主義国家であるアメリカが一人の大統領によって大きく動かされ、世界を巻き込み、混乱が生じつつあるのは改めてアメリカの影響力を感じるし、今後の不透明感がより高まっていると思うこの頃である。民主主義国家の代表であるアメリカがこれまでとは違う側に行くのか、非常に興味深い。▼アメリカは、若い国であり、今後、第二次世界大戦の時のような権威主義・全体主義にも行きかねない危なさはある。そういう危機の入り口にいるのかもしれない。また、AI革命が盛んに喧伝されるが、AIは情報の中央集権体制と相性がいいという側面を持つ。アメリカでも意見の多様性を排除するような言説が目立ち、そこにAIの進化が加わってくるとディストピアの世界感が出てきて、悲観的になるところもあるかもしれない。▼しかし、そういう悲観的な状況になればなるほど、楽観の力を信じたい。楽観的に、将来を良い方向に変えていこうとする実行力が求められている。テクノロジーの進歩は止められないが、それを破壊的な動きに繋げることは避けなければならない。▼テクノロジー業界に身を置くものとして、テクノロジーを良い方向に使っていこうという意志、議論を封じる方向ではなく議論を活発化する方向に使っていこうという意志が、今まさに求められているところである。(パートナー 熊谷圭介)
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