人的資本可視化指針改訂の背景と概要
今里:この20年間で日本の経済成長が停滞している要因として、積極的な人的資本投資がなされてこなかったことが挙げられます。企業価値向上のために必要な人的資本投資が十分に行われているかという観点からの情報開示が不十分という投資家の声や、国際基準に準拠したサステナビリティ開示の動きが進んでいる現状を踏まえ、企業価値向上につながる質の高い人的資本投資の実践と開示に向けた、人的資本可視化指針の改訂が検討されており、これに関する意見募集が1月20日に始まりました。
諸外国と比較すると日本の企業では人件費を削減する傾向にあり、重要なスキルを持つ人材への処遇が十分でなく優秀な人材が集まりにくいという指摘が目立ちます。また役職が上がるにつれて女性の割合が下がっており、女性に活躍の場が与えられていないことや、社員への健康投資にも遅れがあり3.4兆円に及ぶ経済損失が発生していることも投資家から問題視されています。イノベーションを創出し企業価値を高めるには組織内のダイバーシティが重要であると投資家の間では広く認知されており、企業価値につながる人的資本投資への取り組みが求められています。
このような背景から、新たに国際基準の動向も踏まえて企業が経営戦略と人材戦略を結びつけていくための指針である人的資本可視化指針の改訂が行われています。どのような情報を開示すればよいのかという企業側の声がありますが画一的な答えはありません。今回の改訂における最大の特徴は、企業が必要とする人的資本(依存)と、それに対して企業がどのように働きかけて最大化するか(影響)を区別して整理することが重要という考えが織り込まれている点です。企業ごとに経営戦略が異なるように、その経営戦略を実現するために必要な人材戦略もそれぞれ異なるということを前提としたうえで具体的な指標の例を示しながら、企業の戦略策定に活かされる指針を作成していきたいと考えています。
日本企業における人的資本投資の現状
大塚:企業による情報開示の際はナラティブに、すなわち一連の物語となるように情報を扱うことが重要です。日本の企業の傾向として、育休取得率や女性役員の比率といった情報を個々に扱うため、それぞれの情報開示の背景や戦略が見えてこないことが指摘されています。この一連の物語というのは、企業の経営戦略に対してどのような人材が必要か、現状の人材ポートフォリオと比較してどのようなギャップを抱えているのか、そしてギャップを埋めていくにはどのような施策を取りどう追跡するのかといった流れのことであり、人的資本投資はこの流れの重要な出発点となります。
2024年にデロイト トーマツは、TOPIX100構成銘柄企業の有価証券報告書から日本の企業の人的資本投資における情報開示の現状を分析しました。その結果、「企業価値向上のために人的資本の最大化を目指す」という抽象的な目標が記載されていたり、女性管理職比率や男性社員の育休取得率、男女の賃金格差といった義務化された情報のみが多数開示されており、おそらく本来の経営戦略実行のためではなく企業への情報開示の要求に応えている状況です。また取締役会においても、経営戦略の達成に必要な人材を獲得するための議論が十分になされていない可能性を指摘しています。
一方で、人的資本を含めたESG連動型役員報酬の導入は進んでいます。企業側の背景としては、期待成長率としての非財務資本を伸ばすことを海外投資家から求められていることが挙げられます。一方で投資家側の背景としては、財務諸表の数値を生み出している社員への人的資本投資を重視することで企業の将来性を測るという目的があると大塚は話します。ただしESG投資の項目で人的資本を重要視している投資家は57.4%にとどまっており、多くの投資家が人的資本に注目しているわけではないという可能性も示唆されています。

経営戦略と人材戦略の連動に関する展望
今里:日本でESG連動型役員型報酬の取り組みが進んでいるというのは非常に面白いですね。グローバルの視点でも、どのように人材が活躍しているかが企業の発展に重要だという考えが浸透しています。報酬の観点からも、日本は人的資本投資のポテンシャルを活かしていく余地があると思います。
大塚:伸びしろとしては非常に大きいはずなので、人的資本投資に訴求して体制も変えていくことができればよいと思いますね。
今回お話ししたかったのはまさに、企業が情報開示の要求に応えるためにただ情報を開示するのではなく、本来の目的である経営戦略と人材戦略を連動させるためにはどのようにすればよいのかということです。私の考えとしては、経営陣と人事部をしっかり連動させる必要があると思います。おそらく従来の取締役会ではあまり人事部と連動できておらず、人事制度はあるが戦略がないという状態になってしまっているので、取締役会で人材戦略に関する議論をしていく必要があると思います。先ほどおっしゃっていたように、役員の本気度を上げるために役員報酬を活用するのもよいかと思います。アメリカのように、短期インセンティブとして今期の優秀な役員の採用人数や昇進比率をボーナスに組み込むこともひとつの方法ですね。

また投資家の皆様については、海外の投資家が人的資本を重視しているように、日本でも取締役会が人的資本を監督しているかを対話(エンゲージメント)してもらうのもよいかもしれません。EUのSFDR(サスティナブルファイナンス開示規則)のようなものを日本に導入し、投資家に投資先の情報を開示するよう促すのも一案です。強制力を伴う制度により、企業と投資家の双方に今以上の人的資本投資を意識してもらうという案ですが、いかがでしょうか。
今里:非常に面白いですね。我々としても、現状は先を譲り合っている企業と投資家がいかに同時に人的資本投資の観点からコミュニケーションを取り合えるようになるかが重要と思っています。企業側から人的資本投資におけるKPI達成度に応じた業績が開示されることにより、投資家側も最初から人的資本投資に注目しておくことがリスク回避になるという環境を作るということですね。昔と比較すると人材の流動性が高くなっているので、企業の人材戦略のサイクルも短くしていく必要があります。
大塚:現代の外部環境を考慮すると、経営戦略と人材戦略のタイムラインが大幅にずれてしまっているのが現状なので、変えていく必要があるのはおっしゃる通りです。
今里:労働市場とのコミュニケーションも重要ですね。今後の日本では労働供給制約がさらに厳しくなっていくので、組織のエンゲージメントを高めながら持続的な企業価値向上につなげていくことも重要な経営課題のひとつになると思います。
大塚:そうですね。EVP(Employee Value Proposition)といって、企業が成長の機会を提示することで優秀な人材がその企業で働く価値を見出すという考え方があるのですが、まだまだ日本には根付いていない印象を受けます。企業側から成長の機会を提示するというのも、人を大切にすることにつながるかと思います。
対談者
大塚 泰子
合同会社デロイトトーマツ
サステナビリティアドバイザリー統括(パートナー)
総合系グローバルコンサルティングファーム、外資系ITコンサル企業を経て、デロイト トーマツ ファイナンシャルアドバイザリー合同会社に入社。17年超に渡り、新規事業戦略策定、中長期の成長戦略策定、中期経営計画検証、ビジネス・デュー・デリジェンス、経営統合支援といった領域に携わる。2021年から、外資系ITコンサル企業において、サステナビリティーコンサルティングの日本支社における立ち上げおよびフォーカルリーダーとして活動。
今里 和之
経済産業省 経済産業政策局
産業人材課 課長
東京大学大学院生物化学専攻修了、カーネギーメロン大学公共政策管理学専攻修了。
平成15年4月 経済産業省 入省。平成30年6月 大臣官房会計課、令和元年6月 技術振興・大学連携推進課 課長、令和2年7月 中小企業庁 経営支援部 経営支援課 課長、令和3年7月 新エネルギー・産業技術総合開発機構-欧州事務所長、令和6年7月 経済産業政策局 産業人材課 課長、現在に至る。





