特定事業者の現状

警察庁より公表される「年次報告書」や「犯罪収益移転危険度調査書」によれば、金融機関を始めとする犯罪収益移転防止法で定める特定事業者による疑わしい取引の届出件数が大幅に増加し、令和5年中の届出件数は約70万件と過去最多となった。疑わしい取引の届出が増加した背景としては、特定事業者側のマネロン等対策意識の向上により、取引時確認等のチェックシートの充実化や取引モニタリングシナリオの拡充等、不正な資金移動に対する監視態勢を強化していることに加え、インターネットバンキングやキャッシュレス決済等の金融取引のデジタル化・非対面化に伴い、マネロン等に利用しやすいチャネルが拡大していることも要因として考えられる。

届出件数の増加は、その前段で取引モニタリング等において疑わしい取引の候補が数多くアラートとして検知されることを意味し、その精査のために多大なリソースを費やす必要を生じさせる。実際に、多くの特定事業者では、届出の要否判断や届出の手続き等の事務負荷が増加するとともに、人員の割り当てが必要となり、人件費等のコスト増加に悩まされている。また、そうした負荷の増加に伴い、社内のリソースが届出に係る定例業務に割かれてしまい、マネロン等に対する態勢の高度化やその他企画業務に掛けるリソースが不足してしまうことも重石となっている。

AI分析に求める姿と現状

そのような状況の中、AIによる不正取引検知の技術が注目されている。日々の膨大な取引から不正の兆候がある取引を検知する取引モニタリングでは、疑わしい取引の届出対象に関連するデータをAIモデルの教師データとして取り込むことで、特徴が似ている取引の傾向を把握することが可能となる。AIの分析結果から得られた疑わしい取引の傾向をもとに、既存の取引モニタリングシナリオの条件や敷居値を調整することにより、false positive※1(誤検知)を抑え、より精度高く、かつ効率的に検知すべき取引を選定することができるため、事業者はリソースを他の施策に回すことが可能となる。

AIを利用した不正検知は大きなメリットが得られる一方で、AIの導入事例は少数に留まっているのが現状である。AIの導入が進まない主な理由としては、以下3点が挙げられる。

 AI導入に掛かったコストの回収に関する懸念があること

そもそもアラートや疑わしい取引の届出が少ない特定事業者等においては、AI導入コストが事務負荷や人件費等の将来的なランニングコストの削減に対して高額になってしまい、AIを導入するメリットが小さい、あるいは導入により損失を被ってしまうことが想定される。また、他社事例が少ないために、AI導入時の費用対効果が想像し難い点もAI導入を躊躇する原因として考えられるだろう。

 AI分析結果の説明可能性に関する懸念があること

AIの利活用に関する各種ガイドラインでも重要視されているように、AIが分析した結果について、なぜそのような結果になったのかを説明できる状態にすることが期待されている。AIに関して知見を持つ専門人材を有する大企業やデジタル領域をサービスの基盤とする企業では問題となることは少ないと思われるが、AIに関する知見を持たない特定事業者では、AIの仕様や分析結果を十分に理解することが難しく、不安を覚えることは想像に難くない。

③ 事前準備に係る作業を行う余裕がないこと

AIによる分析を利用する際には多種多様なデータが必要となるため、分析に利用可能なデータの洗い出しやデータの定義の確認、AIに投入する前にデータのクレンジングや加工が必要になる等、分析に向けた事前作業が多くなる。特に、人員に余裕がない特定事業者においては、日常業務に加えて上記のようなデータの棚卸等について対応する工数を確保できないため、AI分析をやりたくてもできない状況であることが考えられる。

正常な事象を誤って異常であると判定してしまうこと。マネロン等の領域においては、通常の取引を不正な取引として検知してしまうことを指す。

AI分析の課題

AI分析の導入を実現できた特定事業者であっても、いくつかの課題が見られている。ここでは、主な課題を3つ紹介する。

 AI分析に用いるデータ項目の選定

膨大な取引データを分析するに当たり、多種多様な項目を扱えることはAI分析の利点であり、人力による分析では気付かない特性・傾向を発見することができる。また、雑多な情報をAIに投入しても、投入されたデータの中で貢献度の高い項目やリスクの高い取引を発見することにも繋がる。ただし、明らかに不要な項目、傾向が見られないであろう項目まで網羅的にデータとして投入してしまうと、意味のない相関等を計算してしまうことでノイズが入り、AIモデルの精度を下げるばかりか見当違いの分析結果を出力してしまう恐れがある。また、投入する項目が多ければ多いほど、分析結果で示される内容が多岐にわたるため、真に利用可能なデータを取捨選択することを難しくしてしまうことにも注意が必要である。

② 定性面での検証

取引モニタリングのAI分析でよく利用されるSHAP※2による評価は、特定の取引モニタリングシナリオに関する疑わしい取引の届出情報を教師データとするAIモデルが導き出した予測値に対して、データとして投入した項目(特徴量)の中で、どの特徴量が疑わしい取引に寄与しているかの貢献度を計算するもので、貢献度の大きい特徴量をもとに、シナリオ条件の追加や敷居値の変更を検討することが可能となる。ただし、投入したデータの中で統計的に相関性の高いものが選ばれているだけであることから、本来関係ない特徴量がたまたま貢献度の高い項目として挙げられることもある。そのため、最終的には人の目を通して、本当に利用してもよい情報であるかどうかを判断する必要がある。

③ 教師データの有効性に関する検証

AI分析を行う際には、疑わしい取引の届出の対象となった取引データを教師データとして導入することになるが、特定事業者ごとに届出の基準や確度が異なるため、AIモデルの予測精度が低くなってしまうことがある。例えば、幅広に疑わしい取引を届け出ている、あるいは疑わしい取引の基準が曖昧な事業者であれば、AIが疑わしい取引の傾向を掴みきれず、予測精度が下がってしまう可能性が考えられる。逆に、疑わしい取引の確度が相当程度に高くないと届出を行わない事業者では、教師データが不足した結果、十分な分析ができずにAIモデルの精度が低くなることもあり得る。また、届出を行った取引を本当に疑わしい取引と判断してよいか、逆に届出すべき対象が他に含まれていないかを吟味しないまま教師データを作成してしまうと、本来検知すべき取引を予測できないモデルが作成されてしまうため、疑わしい取引の届出そのものの正確性を検証する必要がある。

2 SHapley Additive exPlanationsの略。モデルが予測した結果に対する各変数(特徴量)の貢献度を求めるための手法のこと。

おわりに

日々膨大な資金移動を伴う取引が行われる中、マネロン等の手口が複雑化、巧妙化している。人間の力だけで疑わしい取引を判断するには難しい局面を迎えており、IT技術を利用した検知業務の高度化が不可避となっている。その中でも、AIの活用は、人間では気付かない特性・傾向を把握できることや、膨大なデータを扱うことが可能である点で非常に有効な手立てとなる一方、投入するデータを適切に取り扱わなければ期待していた効果が得られないことに注意が必要である。AI分析の導入には相応のコストもかかるため、分析結果を最大限に活用できるよう、AIに関する最低限の知識の取得とデータ整備等の事前準備を抜かりなく行うことをお勧めする。

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