量子力学的な現象を利用して計算を行う量子コンピューターは、金融や化学、自動車、製薬など幅広いインダストリーから注目を集めており、実用化に向けた取り組みが世界中で精力的に進められています。期待される効果の大きさから多くの投資が集まっているものの、まだ技術的に解決されていない課題も多く、実用化にはかなりの時間がかかると言われています。この領域に早くから注目し量子コンピューターのアプリケーションとミドルウェア、ハードウェアをフルスタックで一貫して開発しているblueqat株式会社の湊雄一郎氏に、量子コンピューター業界の現状と未来について聞きました。(聞き手:編集部 毛利俊介、川添貴生)
湊 雄一郎氏
blueqat株式会社代表取締役社長
東京大学工学部卒業後、隈研吾建築都市設計事務所を経て、2008年にMDR株式会社設立(現・blueqat株式会社)。2017~19年内閣府ImPACT山本プロジェクトPM補佐を務める。
受賞歴は2008年環境省エコジャパンカップ・エコデザイン部門グランプリ、2015年総務省異能vation最終採択など。
期待が膨らむ量子コンピューター業界
――建築が専門だった湊さんが量子コンピューターの会社を作った経緯を教えてください。
大学を卒業した後、建築事務所で働いていたのですが、2008年のリーマン・ショックと2011年の東日本大震災の影響を大きく受けることになりました。そこで2008年にMDR株式会社(現・blueqat株式会社)というシステム開発会社を立ち上げたのですが、資金を投下する新規事業を検討していた際に、たまたま金融と量子コンピューターに関する記事を見て、これに挑戦してみようと考えたことが量子コンピューターの世界に飛び込むことになったきっかけです。
――まだ市場もなかった時期だと思いますが何か成功する勝算があったのでしょうか。
いえ、全くのチャレンジでした(笑)。最初はずっと手探りで進めていたのですが、会社として軌道に乗り始めたのは、三菱UFJフィナンシャル・グループのアクセラレーションプログラムである「MUFG Digitalアクセラレータ」の第3期で準グランプリを獲得できた頃です。当時は海外でも量子コンピューターに関する活動が活発になり、セキュリティ領域などで話題になることが増えていましたが日本で量子コンピューターに取り組んでいるのは我々だけで、そこがMUFG Digitalアクセラレータで評価されました。その後は順調に事業が拡大し、現在は量子コンピューターソフトウェア開発キット(SDK)をオープンソースで提供しているほか、独自のクラウドシステムの運営も行っています。
――国内における量子コンピューターの市場規模(*1)は2030年度に2,900億円程度になるという予測がありますが、この規模感についてどう思いますか。
それほど意外ではなく、その予測よりも市場規模は大きくなる可能性もあります。全世界で見ると、量子コンピューターに対する投資額の累計は2022年度で3兆円に達しています。また我々のビジネスも順調に伸びていて、着実に量子コンピューターの利用に向けた取り組みは多くの企業で進んでいると感じています。そうしたことを考えると、10年後にはもっと大きな市場になっていたとしても不思議ではないでしょう。
量子コンピューターの活用が期待されていて、実際に我々のビジネスとしても伸びている領域としては、再生エネルギーやヘルスケアなどが挙げられます。また自動車や材料科学といった業界でも、多くの企業が量子コンピューターへの取り組みを進めています。
現状における量子コンピューターの課題
――現在の汎用コンピューターと同様に、量子コンピューターの世界もハードウェアとソフトウェアに分けられますが、現状で注目しているのはどちらでしょうか。
量子コンピューター業界として、これから確実に伸びていくのはハードウェア領域でしょう。ソフトウェア領域はビジネス的にも厳しく、事業を継続することが難しいためにハードウェア系の企業に事業を売却するといった事例が出始めています。また、アメリカで上場している量子コンピューター系企業の多くはハードウェアベンダーです。
その背景にあるのはエラーの多さです。量子コンピューターの現在の方式ではエラーを回避することができず、この問題を解決するには厳しい要件を満たしてエラー訂正と呼ばれる技術を実現しなければなりません。そのためにはソフトウェアよりもまずハードウェアを進化させる必要があることから、ハードウェア領域に対して積極的に投資が行われている状況です。
――ハードウェア開発はベンチャーにとってかなりハードルが高いのではないでしょうか。
2~3年前の段階では、量子コンピューターで必要となる部品は市場に出回っていませんでした。しかし現在では、様々な部品が汎用品として流通しているため、わざわざ自分で開発する必要はないといった状況になっています。実際、海外ではハンドメイドで1つずつ量子コンピューターを構築するのではなく、現在のパソコンと同様に、様々な部品を組み合わせて製造するようになりつつあります。
このようにサプライチェーンが完成されつつあるので、我々としてはそれを通じて必要なハードウェアを入手し、それをアセンブリした汎用コンピューターを提供するといったビジネスを展開することが可能になってきています。
対応が遅れる日本の現状と先行する海外企業の動向
――量子コンピューター領域における、日本の状況をどのように見ていますか。
日本企業は様子見というところが多く、単純に遅れている状況です。特に強く感じるのは、海外企業との情報格差です。そのほかの分野と同様に、量子コンピューターの世界でも公開されている情報には大きな価値がなく、公開されていない重要な情報をギブ・アンド・テイクで取りに行かなければなりません。しかし、日本企業は必要な情報が得られていないと感じています。そのため、公開されている情報だけで研究を進めざるを得ず、世界に後れを取っているのが現状です。
このような状況から抜け出すためには、海外企業と真正面から勝負するしかありません。量子コンピューターに関する研究も積極的に進めるべきですが、少子高齢化であることに加え、各企業は研究開発に関わる人員を削減しているため、巻き返すのは容易ではありません。
海外では、量子コンピューターの研究開発に国が予算を割り当てるケースがあるほか、それに連動してベンチャーキャピタルからの投資額も増加傾向にあります。世界トップクラスの量子コンピューター系ベンチャー企業の資金調達規模は、シードで2億円、シリーズAで20~50億円、シリーズBで100億円といった辺りが従来のスタンダードな額でした。しかし最近では、シリーズAでも調達額が100億円に達するケースがあり、以前よりも投資規模は拡大しています。
ハードウェアとソフトウェアの統合が進んでいることも注目したい動向です。以前はソフトウェア会社だったベンチャーがハードウェア会社と合併するなど、全体的に垂直統合の動きが加速しています。実際、大型の調達に成功している昨今の企業は、ほとんどがハードウェアとソフトウェアの両方のチームを持っている感じですね。
量子コンピューター業界のAppleに
――量子コンピューター企業として今後どういった事業展開を目指していますか。
ハードウェアとソフトウェアを垂直統合して、コンシューマー向けの小型量子コンピューターを大量に販売する、Appleのような企業になりたいと考えています。今後はスパコン的な大型の量子コンピューターがある一方で、コンシューマー向けにデスクトップタイプの量子コンピューターも登場するだろうと予測しています。我々として狙っているのはコンシューマー市場であり、その領域で、例えば消費電力が現状の1,000分の1に抑えたハードウェアを開発し、さらに我々のSDKを展開することができれば、現状のAppleのようにビジネスを展開できると考えています。
その背景には、量子コンピューターに興味を持っていても、現状のものはスパコンのようなものでなかなか手が出せない状況があります。そこで小型量子コンピューターをしっかり開発し、さらにソフトウェアを垂直統合して提供する。そうして安価かつ消費電力も小さい量子コンピューターの環境を構築することができれば、大きなベネフィットを社会に提供できると考えています。
――企業が量子コンピューターなど不確実だがポテンシャルの高い技術を取り込んでいくには何が重要だと思いますか。
失敗を恐れずにチャレンジすることでしょうか。海外の場合、自社の課題を解決するための量子コンピューターに取り組んでみたけれど、現状の技術では課題を解決することはできなかったと結論づけた、そういったフェーズまで進んだ企業もあります。仮に失敗だったとしても、こういった結論に早く達することがとても重要です。失敗すれば、その経験を生かして次に進むことができるためです。逆に失敗しなければ、次に進むこともできません。
現状を見ていると、日本はやはり大きく出遅れていて、そのことにすら気付けていない状況です。ただ、まだまだチャンスはあると考えているので、我々もチャレンジしていきたいと思います。