多くの企業では財務情報だけでなく、知的財産やCSR、将来に向けた取り組みなどを包括した「統合報告書」を公開していますが、大学でも統合報告書を発行する動きが広がりつつあります。そのきっかけとなったのは東京大学の2018年度の統合報告書公開でした。投資家の判断材料といわれている統合報告書をなぜ大学が出すのか、誰に向けて出しているのか、その狙いについて東京大学 財務部決算課長・IRデータ室副室長の青木志帆氏、そして経営企画部 IRデータ課 係長の金山慶祐氏、同じく経営企画部 IRデータ課の黒田有紀氏にお話を伺いました。(聞き手:編集部 毛利俊介、川添貴生)

青木 志帆氏

主に、大学、独立行政法人にて決算業務に携わる。2013年4月、文部科学省高等教育局国立大学法人支援課財務分析係長。2021年4月より現職。著書に『制度とおカネのよもやま話―国立大学法人会計入門』(学校経理研究会、2015年)。

金山 慶祐氏

教務・人事・国際等の幅広い業務や他機関での海外研修を経験し、現在はIRデータ室研究部門の担当として、大学の研究力強化のためのデータ収集・分析を行っている。

黒田 有紀氏

理系部局と本部の総務系部署に勤務した後、文部科学省および米国大学での研修を経て、2020年4月から現職。IRデータ課では教学部門担当として、教育・学生に関するデータ収集・分析を行う。

大学の実態を説明するには財務レポートでは不十分

――東京大学において統合報告書を作成することになった背景を聞かせてください。

東京大学では、財務や経営戦略について幅広いステークホルダーの方々と対話するための取り組みとして、2015年から「定期株主総会」を開催しています。

これは東京大学を支えていただいている、多様なステークホルダーの方々を「株主」と位置付けて実施しているイベントです。2020年まではホームカミングデイの中で、2021年は単独のイベントとして実施しました。

株主総会の目的は、本学が力を入れて取り組んでいる活動や総長の関心事をテーマに、学外の有識者と本学の教職員との意見交換を通じて課題を共有し、大学経営のヒントを得ることになります。

この株主総会では財務情報も報告するため、当初は財務レポートを作成していました。ただ、本学の実態を説明し、ステークホルダーの方々に共感していただくには、財務情報だけでは足りないと感じていました。

出所:東京大学 総合報告書2021 IR Cubed(https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/public-relations/IRIR.html)、表1

その足りないものは何かを考えた結果、必ずしも貨幣価値に換算することができない教育、研究、社会連携などの非財務情報に行き着きました。そのとき、すでに企業では財務情報と非財務情報をまとめた「統合報告書」の公開が増加していたことから、本学でも統合報告書をまとめることにしました。

統合報告書は東京大学の価値、存在意義を伝えるツール

――統合報告書を作成するうえで、特に意識されていることは何でしょうか。

アカデミアにとっての当たり前を繰り返し伝えることです。

統合報告書は多くの企業でも公表されていますが、大学と企業ではパーパス(存在意義)が大きく異なります。その違いの中でも大きいのが、大学はリターンを前提として存在しているわけではないことです。

大学は投資をしたからといって直接リターンが返ってくるわけではありません。しかし、その投資によって生み出される知的アセットの価値の多くは公共財の性格を持ち、社会や経済にインパクトを与えます。これはアカデミアの人間からすると当たり前のことなのですが、必ずしも社会でそれが認識されている訳ではありません。

この当たり前を我々が丁寧に説明し続けないと、多くの人たちに共感いただけないことを痛切に感じたことから、統合報告書で何を伝えるべきかが徐々に明確化しました。

出所:東京大学 総合報告書2021 IR Cubed(https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/public-relations/IRIR.html)、pp10-11

――確かに大学の研究はすぐに成果が出るものばかりではなく、また成果を貨幣価値に換算することが難しいものも多いですよね。

仰る通りです。大学で行われている教育、研究活動の時間軸は多様です。例えば成果が出るのが100年後といった研究や、存在していること自体に価値がある学問もあります。

具体例として挙げられるのは、古文書に関する学問です。東京大学史料編纂所には、古文書を読み解く力を持つ教員がおりますが、そうした研究者がいること自体が価値と言えます。そのような研究者たちがいなければ、古文書としての存在価値がなくなることにもなりかねません。

このようなことを丁寧に分かりやすく、繰り返し伝えていくことで、本学の存在意義を理解し、生み出す価値に共感いただく。そのためにも、統合報告書は我々にとって重要なツールだと考えています。

財務状況を分かりやすく伝えるために独自の財務諸表を作成

――統合報告書を作っていく中で課題となったことはありますか。

1作目である2018年度の統合報告書を制作したときは、どう作ればいいのかが分からず、試行錯誤しながら仕上げました。それを関係者に配布したときに言われたことが、財務が分からないというものでした。

そもそも大学の財務諸表は、企業会計の観点からは外れている部分があります。ただ従来は見る人が限られていたため、把握する必要のある人が分かればいいという考え方でした。

一方、国から国立大学における財源の多様化などが求められている状況などを考えると、この財務諸表を使った説明では多様なステークホルダーに理解を得られないと感じました。そこで翌2019年度から財務諸表部分について議論を行い、2020年度の統合報告書では東京大学オリジナルの財務諸表を作成して掲載しています。

東京大学オリジナルの財務諸表。国際公会計基準の考え方を導入しているほか、業務を役割の観点で基盤部分(運営体)と機能拡張部分(経営体)の2つに分けて整理し、また先行投資財源を確保し活用できる仕組みをバランスシート上で表現するといった工夫が盛り込まれている。
出所:東京大学 総合報告書2021 IR Cubed(https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/public-relations/IRIR.html)、p.19

また2019年度の統合報告書から、通常の企業やほかの大学では例にない、本学の財務経営上の課題について特集記事を掲載しています。アカデミアは利益を生み出すために活動しているわけではありません。そのアカデミアならではの経営について、模索する記事を特集しています。

制作を通じて大学への理解が深まっていく

――制作に関わった職員の方にはどう受け止められていますか。

大学の経営や運営に携わる職員の成長や組織全体の理解にも統合報告書は役立つと考えています。

我々の統合報告書は職員が自ら取材し、記事を執筆しており、それは非常に大事なことだと考えています。プロの方にお願いすれば素晴らしいものができあがるのかもしれませんが、職員の我々が制作を担当することによってトップの思いや経営戦略に触れる機会が生まれ、改めて大学経営について学ぶことができました。日常業務ではなかなかほかの部署や経営層の仕事を知る機会はないので、とてもいい経験になりました。

また記事制作のために先生方にお話を伺いに行くと、研究について非常に熱心にお話しいただけるんですね。普段、我々は事務職員として働いていますので教育現場とは若干距離があるのですが、こうした先生の思いに触れられたことは非常にいい刺激になりましたし、その熱意を少しでも多くの方々に届けたいと原稿を書きました。

チリ共和国のアタカマ砂漠にあるチャナントール山の山頂に口径6.5mの赤外線望遠鏡を建設する「東京大学アタカマ天文台(TAO)計画」に関する記事。制作担当者が自ら取材して執筆した。
出所:東京大学 総合報告書2021 IR Cubed(https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/public-relations/IRIR.html)、pp50-51

多くの大学が統合報告書を公開するミライ

――大学における統合報告書の今後について、どのようにお考えでしょうか。

今後はより多くの大学で統合報告書が作られるようになると考えています。大学にはそれぞれ使命やビジョンがあり、育成する人材の姿も異なると思います。東京大学は日本全体、世界全体を見据えて様々な研究に取り組んでいますが、一方で地方の経済に深く関わっている大学、あるいは教員養成に特化した教育大学などもあります。

こうした違いやパーパスが理解できる統合報告書が様々な大学で公開されるようになり、それを読んだ人が「この大学と関わりたい」、あるいは「共同研究を申し込もう」などと考えるようになる。大学の統合報告書がそういった存在になればと思います。

我々は統合報告書に限らず大学の情報発信に関する取り組みを今後も積極的に推し進め、東京大学の存在意義を多くの人々に理解していただけるように、これからも取り組んでいきます。