政府は近く新たな経済対策を決定し、臨時国会に財源の裏付けとなる2023年度補正予算案を提出する予定だ。経済対策をめぐっては与野党から「減税」を主張する声が多くあがった。背景には、長らく安定していた物価が急激に上昇したことで、国民の実生活に影響が広がっていることがある。そこで本稿では、個人所得税制度のインフレ調整という観点からブラケット・クリープへの対応について考察する。所得税制の見直しは消費に影響を与え得るため、企業もその動向には注視を求められそうだ。

岸田文雄首相は925日、新たな経済対策を取りまとめる方針を記者会見で表明した。「成長の成果である税収増を、国民に適切に還元する」として、①物価高対策、②持続的賃上げと地方の成長、③国内投資促進、④人口減少を乗り越え、変化を力にする社会変革の起動・推進、⑤国土強靭化など国民の安全・安心――を5本の柱として重点項目に据えた※1。会見で「減税」について強調したのが、③における成長力強化に向けた企業に対する措置であった。具体的には、賃上げ税制の減税制度の強化や特許などの所得に対する減税制度の創設、ストックオプションの減税措置の充実の検討について言及がなされた。

しかし、会見直後から減税については③の国内投資促進ではなく、①の物価高対策をめぐる主張が与野党問わず盛んに飛び交った。背景には、昨今の急激な物価上昇(インフレ)に賃上げが追いつかず、国民生活に広く影響を及ぼしていることがある。最終的に岸田首相は「一時的な緩和措置」として与党幹部に所得税減税を含めた国民への還元策の検討を指示した。

そこで物価高対策の税制改革として注目したいのが、インフレと所得税の累進性の関係から生じるブラケット・クリープの解消だ。ブラケット・クリープとは、所得税率が適用される年間所得の金額は名目の金額で固定されているため、インフレによって名目所得が増加すると自動的に高い税率が適用され、実質の負担額が重くなる現象を指す。この現象は、所得階層区分(ブラケット)における高税率にゆっくりと近接(クリープ)するため、「隠れた増税」とも言われる。

政府が景気の公式見解として公表する月例経済報告では、消費者物価(生鮮食品及びエネルギーを除く総合)について当面上昇していくとの見通しが示されている※2。インフレ基調の経済情勢を踏まえれば、制度のインフレ調整という観点からブラケット・クリープへの対応は検討の余地があると言えるだろう。

インフレ下の欧州で実施、過去には日本でも

歴史的なインフレに苦しむ欧州ではブラケット・クリープの問題への対応が行われている。ドイツでは2022年に所得税の課税最低限や閾値を引き上げるなどの「インフレ補償法」の導入が発表されている※3。連邦統計局によると、2022年第3四半期の名目賃金は前年同期比で2.3%上昇したが、消費者物価はそれを大きく上回る8.4%の上昇となった。その結果、実質賃金は2008年以降で最も大きい減少率となる5.7%を記録した※4。ドイツ政府によるとインフレ補償法により約4800万人が恩恵を受けるとされている。

フランスでもブラケット・クリープ解消の税制改正が実施されている。フランスのインフレ率は20232月に前年同月比で7.3%のピークに達した後、2023年は年平均で5.6%と2022年の5.9%から低下するとの見通しとなっているが依然として高い水準となっている※5。フランス政府は2023年に所得税の課税最低限などを5.4%、引き上げて対応を図った。さらに927日に閣議決定した2024年予算法案によると、再度インフレ率並みに引き上げ、物価上昇に伴う賃上げが課税強化を招かないよう対応される方針だ※6

日本においても、過去には物価上昇に伴いブラケット・クリープが生じた際、課税最低限の引き上げや累進税率の区分の幅を変更させる措置が実施されてきた。ここでは1970 年代以降の所得税改革を概観したい。

オイルショックにより消費者物価指数の上昇率が20%を超えた1974 年度には、最低税率と最高税率、税率の段階数は据え置かれたものの、1000万円の課税所得の限界税率を55%から42%に引き下げるなどの対応が取られた。その後、所得税は 10 年間見直されなかったが、インフレなどによって給与所得者の所得税負担率は 1980 年代の半ばまで上昇を続けていたとされる。そのため19881989 年度に行われたいわゆる「抜本的税制改革」では、そうしたひずみを是正するために税率の段階を15 段階(10.5%~70%)から5 段階(10%~50%)に簡素化した※7。このようにインフレ下での所得税改革では、累進税率構造の緩和が実施されてきたことが特徴として挙げられる。

消費者マインドに影響も

インフレによって生じる名目的な所得の上昇は、所得税制において調整が行われない限り実質的な経済成長に見合ったもの以上の負担率の上昇をもたらす。今般の減税議論の中でも、一部の野党からはブラケット・クリープの解消を求める提言がなされた。我が国の所得税の納税者においては、最低税率の5%が適用される納税者が6割を占め、8割の納税者の適用税率が10%以下※8ではあるが、ブラケット・クリープへの対応は一定の合理性がある。所得税のインフレ調整は消費者マインドの改善にもつながり得るため、企業はブラケット・クリープを含めたインフレに伴う税制見直しの動向に留意する必要があるだろう。

<参考文献・資料>

※1 首相官邸「経済対策についての会見」

※2 内閣府「月例経済報告(令和5年9月)

※3 The Federal Government,“Inflation compensation for 48 million people”, 14 September 2022

※4 The Federal Statistical Office, “High inflation led to a 5.7% decrease in real earnings in the 3rd quarter of 2022”, 29 November 2022

※5 Banque de France,“Macroeconomic projections – June 2023”, 20 June 2023

※6 在仏日本商工会議所「仏政府、2024年予算法案を閣議決定」

※7 大蔵省財政金融研究所「フィナンシャル・レビュー」April-2000 日本の所得税-現状と理論- 田近栄治、古谷泉生

※8 財務省「主要国における所得税の限界税率ブラケット別納税者(又は申告書)数割合の比較」

永田 大 / Dai Nagata

研究員

朝日新聞社政治部にて首相官邸や自民党を担当し、政治・政界取材のほか、成長戦略やデジタル分野、規制改革の政策テーマをカバーした。デジタルコンテンツの編成や企画戦略にも従事。2023年5月にデロイト トーマツ ファイナンシャルアドバイザリー合同会社に入社し、DTFAインスティテュートに参画した。
研究・専門分野は国内政治、成長戦略、EBPM(エビデンスに基づく政策形成)。

この著者の記事一覧