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企業活動と社会、市民の関わりが拡大するなか、児童労働や各種のハラスメントといった「ビジネスと人権」問題への対応は重要性を増した。国連人権理事会は2011年に「ビジネスと人権に関する指導原則」を承認し、欧州諸国を中心に先進国でガイドラインやルールを形成する動きが加速した。
国連の指導原則は、企業に人権を尊重する責任があることを明確化し、人権を尊重するために(1)コミットメントの策定・発信、(2)人権デューデリジェンス(「人権DD」、事業が人権に与える影響を評価する取り組み)、(3)救済措置——の3つを実施していくよう求めている(※1)。この指導原則に沿って、日本政府は2020年10月に「『ビジネスと人権』に関する行動計画(2020-2025)」を公表した(※2)。
ビジネスと人権めぐる課題は多様
ビジネスと人権をめぐる課題には、どのようなものがあるのか。日本政府の行動計画では、分野を横断して取り組む事項として、以下を挙げている。
・働きがいのある人間らしい仕事の推進
・ハラスメント対策の強化
・労働者の権利保護
・子ども、少数者の権利保護
・障碍者雇用の促進
・女性活用の推進
・消費者志向経営の推進
これらの課題は、AI(人工知能)に代表される新技術の発展と関連付けて、対応することが重要になっている。例えば、生成AIは差別的な情報や人権上問題があるコンテンツを作成・拡散する恐れが懸念されており、普及に伴ってビジネスと人権をめぐる課題がより複雑になる可能性があるためである。政府は行動計画の中で、新技術の発展を考慮に入れながら、国連が求める3つの取り組み(コミットメントの策定・発信、人権デューデリジェンスの促進、救済措置)に沿った政策を進めるとしている。
また、人権を軸とした地政学的緊張にも留意が必要だろう。米政府は2022年、中国でのウイグル人の強制労働を理由にウイグル自治区製品の輸入を禁止する措置を施行した。こうした対立やESGの普及を背景として、各国政府、投資家の「ビジネスと人権」に対する関心は高まる一方である。グローバル展開する企業は、地政学リスクや厳格化される各国の規制への目配りが不可欠となっている。
評価・分析、説明が日本企業の課題
日本においては、企業の「ビジネスと人権」に対する取り組みは始まったばかりと言える。
2020年10月に公表された日本経済団体連合会が会員企業・団体に行った調査によると、人権尊重のための教育・研修の実施、窓口設置など社内体制を構築した企業は7割強に上った。一方、「人権リスクの特定」や「特定したリスクの分析・評価」、「予防と対処」、「対処結果の継続的な評価・改善」といった項目では、対応を講じている企業は3割前後にとどまった(※3)。ビジネスと人権に関するリスクを特定し、評価・分析し、対応を説明していくという点で、取り組みが遅れ気味であることがうかがえる。(図表1参照)
アンケートに回答した企業は、人権尊重に関心が高い大企業が多い。多くの日本企業、特に中小企業で対応を講じている割合は、この調査結果よりも低いと見るべきだろう。
この状況を踏まえ、企業が留意すべきポイントは何か。整理すると、
① 自社のリスクの「評価・分析」の徹底
② 取引先のリスクの評価
③ ステークホルダー、外部への取り組みの公表・説明
——の3点が挙げられる。以下に詳述したい。
第一に、事業が人権に与える影響、リスクを特定し、その影響を評価することが不可欠である。どのようなハラスメント、人権問題が生じ得るのかを評価し、継続的に確認・改善する仕組みを取り入れることが重要になる。
第二に、人権尊重の体制の評価・確認は自社だけではなく、取引先にも広げていくことが必要である。対象はサプライチェーンで関わる企業、金融取引、ビジネス取引など多岐にわたるだろう。評価・分析を通じて問題を確認できた場合、(1)取引の見直しも視野に入れて改善を促す、(2)取引を停止する——といった積極的な行動が求められる。
最後に、こうした評価・分析や対策を講じた企業は、それをステークホルダーに分かりやすく示すことが大切である。国連の指導原則でも「公表」は重要なアクションに位置づけられている。ビジネスと人権を所管する政府担当者によると、「日本企業は統合報告書などに部分的に触れることで、公表という扱いにしているケースが目立つが、政府当局、投資家の関心は高まっており、積極的な説明、意見交換が期待されている」という。
上記の留意点に対応していくうえで、基本となるのは、人権デューデリジェンス(人権DD)の仕組みを取り入れることであろう。企業は、まずは「ビジネスと人権」の現状を把握するため、事業の特性や環境を分析し、社内規定や従業員の意識を調査することになる。そのうえで、取引先やサプライチェーンの人権対応に調査の領域を広げ、その結果をステークホルダーに十分に説明することが求められる。国際展開する企業にとって、外部専門家、コンサルティング企業の助力を得ることは有効な選択になるかもしれない(※4)。
日本では人権DDはまだなじみが少ない手続きであり、政府も普及・促進を優先事項に掲げている。国内の先進的企業の場合は、▽経営陣が人権DDの仕組みを理解・承認する、▽社内外の知見を取り入れる、▽サプライヤーや取引先に研修の機会を提供する——といった取り組みを導入している。また、定期的にリスクが懸念される分野や取引を取り上げ、集中的に人権DDを実施している企業もある。
緻密かつ完全な人権DDをすぐに導入することは、陣容、予算が限られた中小企業にとって容易ではないが、できる範囲で取り組んでいくことが望ましいだろう。
2019年に逮捕された米国の著名な実業家による性的加害事件では、取引を維持した金融機関や寄付を受けた団体が問題視され、一部は巨額の罰金、和解金の支払いに至った(※5)。関心を集めているエンターテインメント業界での性的加害問題でも、国際的に事業を展開している企業や、幅広く資金調達している企業ほど、人権DDの仕組みを参照して迅速に対応したように見受けられる。今回の事例を嚆矢として、金融、広告を含めた幅広い国内ビジネスで人権リスクの再点検が進むかどうか注目される。
<参考文献・資料>
(※1) United Nations, “Guiding Principles for Business and Human Rights”, June 16, 2011.
(※2) 外務省、「ビジネスと人権に関する行動計画(2020-2025)」、2020年10月16日。
(※3) 日本経済団体連合会、「第2回 企業行動憲章に関するアンケート調査結果」、2020年10月13日。
(※4) デロイト トーマツ ファイナンシャルアドバイザリー合同会社、「いま日系企業に求められるグローバルサプライチェーンにおける人権リスクへの対応」、[2023年10月12日参照]
(※5) Joe Schneider, Sally Bakewell, “Deutsche Bank to Pay $75 Million to Settle Epstein Suit”, Bloomberg, May 18, 2023.