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重視すべきは投資家目線による情報開示
2023年3月期決算から人的資本開示が義務化される。開示内容は企業に委ねられているが、統合報告書や有価証券報告書で先行開示する企業を見ても大きな差がある。そこで、開示義務化で先行する米国の事例に学びながら、開示のポイントを整理する。
人的資本について、国内では「人件費はコスト」という考え方が依然として根強いが、欧米、特に米国では「人的資本」という言い方に表されるように、競争力の源泉と重視されている。そのため、企業価値を決める際にも人的投資が評価の大きな対象になっている。この流れを受けて、内閣府が「人的資本可視化指針」という人的資本の情報開示のあり方をまとめた。その後、内閣府令の改正を経て、2023年3月期決算から開示が義務化される予定である。
当グループが関係している企業へのヒアリングによれば、先行企業では統合報告書や有価証券報告書の内容を整理し直して対応するところもある一方、これから対応する企業では他社の動向も見ながら進めるところもある。23年3月期決算は間近に迫っているが、気候変動に関するシナリオ分析のようなひな型がなく、開示内容も企業に委ねられているだけに、どのように開示すべきかを検討している様子が伺える。
ポイント1:投資家目線による情報開示を検討する
日本に先立ち、米国では、2020年11月からすべての上場企業に人的資本開示が義務化されている。約2,400社を対象とした米大学の研究論文1を見ると、その効果は日本の有価証券報告書に相当するForm10-Kで関連する定量指標を開示した企業が義務化前の40%から73%に急増したことに表れている。中でもDEI(多様性、公平性、包括性)と従業員離職率に関する指標は義務化前の2%未満からDEIが30%以上、従業員離職率が20%以上に増え、増加幅は他の指標に比べて突出して高い。開示項目は企業に委ねられているが、これらの項目は後述する理由により投資家の関心が高いことから、企業は投資家ニーズに応える形で対応したのだろう。また、開示内容と株価との関係を示す価値関連性との関係にも触れており、SASB(サステナビリティ会計基準審議会)が対象とする業界企業に限られるが、義務化以降、情報開示と株式リターンの間に統計的有意な関係が出ており、投資家は企業の開示姿勢を評価している。
こうした米国の先例は開示義務化で後を追う日本にとっても参考になり得る。投資家目線による情報開示は開示姿勢の評価につながるという面でも有効であろう。また、現在、米連邦議会で「人材投資の開示に関する法律」(Workforce Investment Disclosure Act of 2021)が審議されている。長期的な成長に必要な人材投資を行っているかという観点から開示を義務付ける内容であり、法制化されれば開示企業の増加とともに企業間の比較可能性も高まる。開示姿勢では差がつかなくなり、開示内容の中身で評価されることになる。日本企業もこうした状況も見据えながら、開示内容を検討する必要があるだろう。
ポイント2:人材の多様性に向けた施策を検討する
米国で投資家の関心が高いDEIの推進は、日本企業にとっても本格的に取り組むべき重要な課題である。多様な人材は競争力とイノベーションの源泉だが、日本企業は生え抜きが多く同質性が高いと言われ、多様な人材が活躍できる環境が十分に整っていない。グローバルで比較可能な直近の労働力調査2を見ても、管理職に占める女性の割合は13.3%と政府目標の30%に遠く及ばず、欧米諸国の33.7%(主要10カ国平均)やアジア諸国の34.4%(主要6カ国)を大きく下回り、調査対象の20カ国で最も低い水準にある。戦力としての活躍は不十分と言える。
一方、米国ではDEI担当役員を置く企業が出てきているが、日本の先進企業でもDEIポリシーを掲げる企業が出てきた。日本でもDEIを推進する素地ができつつある。こうした状況も踏まえ、今後の女性活躍の施策を検討する。今回、女性活躍推進法等に基づいて、有価証券報告書に新たに記載が求められる「女性管理職比率」、「男性の育児休業取得率」、「男女間賃金格差」の3つの指標は重点項目として企業努力が求められる。こうした点を踏まえた女性活躍の中期経営計画を策定してもいいのではないだろうか。
ポイント3:雇用動態に関する情報開示を検討する
雇用動態に対する関心の高さにも注目する必要がある。米国では近年、従業員離職率と将来の業績との関連性が報告され始めていることも影響しているのだろう。こうした中、約1,600社を対象に人的資本開示の義務化と開示内容の関係を分析した米大学の研究論文3を見ると、米国では開示義務化後、それまで非公開だった従業員の離職や福利厚生に関する多くの情報を開示している企業ほど離職率が低く、株式リターンとの間にも統計的有意な関係が出ている。これらの情報が投資家にとって価値関連情報であることを示している。
離職に関する情報は日本でもあまり開示されてこなかったが、離職に影響する情報として比較的開示され始めたものに従業員満足度や従業員エンゲージメントがある。前者は文字通り、会社に対する満足度を表すが、満足度の向上は必ずしも生産性や業績の向上にはつながらない。一方、後者は会社に対する自発的貢献意欲を表すため、エンゲージメントの向上は生産性や業績の向上につながることが期待される。
グローバルで比較可能な直近の従業員エンゲージメント調査4を見ると、日本企業の従業員エンゲージメントは5%とグローバルの平均水準である21%を大きく下回り、20カ国の平均水準が21.4%のアジア諸国の中でも最も低い水準にある。終身雇用が根付く日本では、不満を抱きながらも離職までは踏み出せない状況にある従業員が多いことを示唆しているのかもしれない。
こうした状況を鑑みれば、日本企業の場合は、離職に関する情報にとどまらず、従業員エンゲージメントやエンゲージメントの向上に向けた施策なども積極的に開示していくべきであろう。もちろん、エンゲージメントの結果は離職率に反映されるため、個社ごとに基準が異なるエンゲージメントに比べて評価しやすい離職率だけを取り上げる方法もあるが、開示し難い一面もあるだろう。より多くの情報で補完することで離職率の説明にもつながる。雇用動態に関する情報の開示は投資家評価にもつながるのではないだろうか。
参考文献・資料
- Bourveau et al., 2022, Human Capital Disclosures
- 独立行政法人労働政策研究・研修機構, 2022, データブック国際労働比較2022
- Arif et al., 2022, The Information Content of Mandatory Human Capital Disclosures-Initial Evidence
- GALLUP, 2022, State of the Global Workplace 2022